Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

圧倒的なフィナーレの合唱

2017-06-05 | 
承前)新制作「タンホイザー」初日第二幕の録音を一部確かめた。最後のフィナーレも大分異なっていた。件の一小節の効果は絶大で、初日には充分にアチェランドが掛かっていなかった。理由はテムポ設定にもあるようだが、それは二幕全体を聴き直して調べてみよう。最後の改訂版の激しい後奏が活きるのは勿論のこと偶然ではない。

それでも第三幕を聞き直してみると明らかにテムポ設定が充分に適切でなかったことが確認出来る。批評にあったようなゲルハーエルが歌う「夕星の歌」の遅過ぎるテムポ設定は寧ろまだ早いぐらいで、問題は全体のメリハリが充分でなかったことかもしれない。

バイエルン放送第二のローカルラディオ放送枠では、珍しく指揮への批判がある。恐らく「ティートスの寛容」以来の現音楽監督への批判であろう。それによると「街中安全走行」で所々疲れたようなテムポだと、ある意味貴重な批判となっている。このペーター・ユングブルートという人は知らないが、批判するのは素晴らしく、ネットでも一部にみられる批判を適格に代弁している ― 但しそこで流されている中継からのカットが若干意図を感じさせる。そもそも昨年の「マイスタージンガー」でも、初日には上手くいっていないのはいつものことなのだが、なぜか今回はその糊代を考慮しない感想があるのはなぜなのか?

演出に関しての言及でも、シュリンゲンジーフ演出「パルシファル」がエポックメーキングとされているので驚かざるを得ないが、今回のカステルッチ演出が自動洗車機のような人の動きにしかなっていないというのはこれも共通した批判点かも知れない。そもそも異次元青年のようなタンホイザーのこちら側での接触が限られるとなると、どうしてもそのような感じになるのかもしれない。

私見からすると、アニア・ハルテロスの歌唱にもいつものように不満があるが、それ以外の点では初日以降大分改善されているのを確認した。要はメトロ―ノーム数値に準拠した正しい律動を刻んでおけば本当は正しい音楽が奏でられる筈なのだが、リズムよりもアーティキュレーションを重視するばかりに間延びしてしまうと充分な息継ぎも出来ないということになるのだろうか。

それでもこの初日の劇場の反応を聞き返すと第一幕終了時の喝采が二日目よりも大きく、テムポが早めに推移したのではないかなと感じたが、七月の最後の公演を観てみないと確信は持てない。感想などでも「この世のものとは思えない音色」とかがあったので、ある意味初日には間延びの傾向があって、メリハリが充分でなかったようだ ― なにか「キリル・ペトレンコが充分に温まっていないようだ」という感想もサイトにあった。だからこそ余計に二日目の最後の最後までの喝采の実情を本人も自らの眼で確認したかった想いがあったのだ。

フォークトの歌唱も初日は不安定だったが、パンクラトーヴァの歌唱はこの役としては慣れが無いだけで適格に熟しており、ゲルハーエルの歌唱があまりに作為的というのはやはり当たらないだろう。なるほどラディオで最初に聞いた時には違和感があったが、「フィッシャーディースカウよりも自然なオペラ歌唱」と批評されているのは事実である。合唱は初日よりも更に良くなってきている。

演出については最終的には中継動画を観なければ結論めいたことは言えないのだが、最初の射的の場面で700本ほどの矢が射貫かれたようだが、舞台上に跳ね返って落ちていたのはわずか一本だけだった。バレーリーナが半裸で弓を打つ練習をしなければいけないなど考えても見なかったが見事な成果である。

会場でしか気が付かないのは舞台上のバンドの音響効果で、これはドルビィサラウンドシステムならば若干異なるように響くのかもしれない。もう一つ最後のフィナーレの合唱の悠々としたテムポも二日目には決まっていたので、その効果は圧倒的だった。(続く)



参照:
備えあれば憂いなしの気持ち 2017-06-01 | 生活
楽匠の心残りから救済されたか 2017-05-23 | 音
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