Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ヴィーン風北独逸音楽

2024-04-03 | 
承前)ブラームスは北ドイツの音楽家なのかヴィーン風なのか。これは現在進行中のハイデルベルクの音楽祭で更に問われる。しかしそこにはっきりしていることは既にあってハプスブルクの帝国体制の中でのグローバルであって、北ドイツのハムブルク出身であったことだ。ライプチッヒを中心とするドイツ楽派とヴィーンのそれが、奇しくもバーデンバーデンでの復活祭ではリヒャルト・シュトラウスという南ドイツの音楽家によって新たに問われることになった。それは決して奇遇ではなく音楽学的な関心が集まっているからに違いない。

復活祭のフィナーレに指揮者キリル・ペトレンコは、少なくとも2017年からブラームスの演奏実践として試みていた前々々任地であったマイニンゲンに残る初演の再現を現在の管弦楽団を使ってのそれを今回達成した。ミュンヘンの歌劇場でのドライな音響の中での余りにも仮借の無いその交響曲四番の響きはより洗練されたしかし抽象的な意思として再現された。金曜日の初日に比較してその修正などの影響もあるのだろうが、それ以上に楽団の方も旅行日の力の抜けた一寸した旅行気分で特徴的な鋼のような高弦もコンツェルトマイスタリンのリードでより柔軟なアーティキュレーションも功を奏したに違いない。

所謂前記のシュタインバッハの校訂版に準ずる細部に関しては、幾つかは気が付く細部があった訳であるが、記憶のどこかに残るそれを逐一取り出して校訂版のそれやらを確認していかなければいけない。しかしそれ以前にそれによって受けた全体的な印象の方が言及する価値があるだろう。

先ずは金曜日に比較し復活祭月曜日のマティネーの演奏では、特に一楽章における書法はより音化されていた。それがどのような音楽的な感嘆に至るかは、そのコーダーの盛り上がり方だけでは測れないものがある。美学におけるアポロンとディオニソスとされる人間における二面性は、パンの笛とアポロンの竪琴の音楽勝負としてギリシャ神話として象徴される。ブラームスのこの交響曲が音楽歴史の中でその存在意味を輝かせるとすればその二面性の統合にある。その創作意思は明らかだ。

それらが主題間の対峙となるヘーゲル流の交響曲の形式に、後期浪漫派とされるブラームスのネオクラシズムの試みの中では、一方では厳格でよりミニマル化された三度と六度による動機の扱いとして、その一方でその交響曲の伝統を担ったヴィーンのまたはハプスブルク帝国内でのあるいはビーダ―マイヤー風とされる民謡的な要素として対峙させられる。

二楽章におけるアンダンテのe-gの三度にfが詰められたドミナントとなるフォリジア旋法とされる音階は古代的であると同時に東方的であったりユダヤ音楽的となるようだ。ハンスリックがエレジーとしたとしたとあるが、副主題の如何にもブラームスの浪漫とされるものの実体であろう。ここでもその歴史的なグローバルな視線は明らかだろう。

しかし、ここまでも前回ベルリナーフィルハーモニカーの演奏で聴いたカラヤン指揮ではたっぷりとした管弦楽の音色によって、そうした歴史的な諸相は塗りこめられて、ドイツのロマンティックな作曲家のステレオタイプな交響曲として世界に複製芸術としても鳴り響いたのだった。ライヴでもそれを裏切らない鉄壁のサウンドとして再生されたのだった。(続く)



参照:
ハルマゲドンの巨匠現る 2023-08-12 | 音
シャコンヌ主題の表徴 2017-10-13 | 音
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