Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

MP3で試聴する更年期状態

2015-07-28 | テクニック
ストリームラディオをリッピングするために新しいフリーウェアーを試してみた。ドイツ製で日本ではあまり知られていないようだ。No23レコーダーと称するもので、サウンド信号として流れたものをコピーするものだが、ダイレクトサウンドから直接入力するということなのでよさそうだと思った。

BRクラシックの生放送や土曜日の楽劇「トリスタン」初日の録音をダウンロードしながら録音してみる。残念ながらUSB-DACを使っていないので、MP3をビットレート320kbpsにして外付けのHDにコピーして、CDプレーヤーのUSB入力を通してよりベターな条件で試聴してみる。MP3圧縮ファイルながら今まで試した中で最も音質の水準が高い。これならばラディオ中継と変わらない。そもそもネット中継は、態々ネットのために水準を落としているのではなく通常のデジタル回線に流すのと同じものを流しているから当然なのかもしれない。

ノートブックのスピーカーをミュートにしてしまうと音自体が消えてしまうので、スピーカー出力を抑えて、録音のマスターを開けっ放しで録音してみた。全くひずみは感じないが、それゆえにかサーノイズは増えた。しかし、それも機械的なそれ以上に祝祭劇場を引き回している長いケーブルの録音側の雑音でもあるようだ。兎に角、MP3にしてここまで綺麗に聞こえたのは初めてだ。これならばWAVで記録しておけば使い物になりそうである。

新聞には土曜日の評が載っている。管弦楽の特に第二幕のアゴーギクとその加速を、胸がどきどきするダイナミックと絶賛している。これでは、指揮者も含めてまるで更年期の爺婆のお話のようだ。そこまで誉めていると確かめてみなければいけない。MP3でもPCで聞くよりは大分細かく聞ける。二幕の最初からそこまでの流れ自体もどうも子供っぽいと感じさせるのだが、トリスタンとイゾルデの逢瀬へと大きく管弦楽団を鳴らしてからのその後の運びも、第一幕前奏曲同様、そこまで聞けば当然のことながらクライマックスも十分に予想できる ― 要するにおこちゃまの飯事だ。

指揮者フルトヴェングラーの名盤ではドラマテュルギー的にもクライマックスへとカタストロフの頂点が大きく築かれるが ― この生死が反転する救済思想の現出こそがナチズムと一体化したのだが ―、音楽的にそこへと至るには、全体の音楽的な素地が吟味されていることが良く分かるのだ。この指揮者が有機的なとするのは必ずしもソナタ形式における連関だけではないことが示されているのだが、バイロイトで日本人指揮者が振ったときのように前奏曲でそれがどのような結果になるかが分かるのである ― ティーレマンは、一方ではそうした思想的なものを否定しない発言をしながら、一方では指揮者バレンボイムが示したような「灰汁抜き」を目指しているかにみえて、実は指揮者として「お手上げ」といった無力感を漂よわせる。

この初代音楽監督のオペラ演奏を聞いていると、とても近視眼的な職人的な仕事はしているのだが、敢えて繰り返すまでもないが、造形芸術と同様にもしくはそれ以上に時間の流れの中での全体像に目が届かないとどうしようもない。それが芸術的なセンスとか才能と呼ばれるものであるが、これもある程度経験を積めば幾らかは上手になる筈なのだ。しかし新聞評が絶賛するところをこうして確かめてみると、どうも音楽のコマーシャリズム帝国の裸の王様状態が存在すると考えずにはいれない。音楽評論などの評論もそうしたセンスがないととんでもないことになる好例なのだろう。

次は、「ラインの黄金」のライヴストリーミングである。



参照:
ハリボ風「独逸の響き」 2015-07-27 | 文化一般
ネット演奏会の幼児保育 2009-01-15 | 文化一般
術にならない頭の悪さ 2015-04-10 | 音

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