Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

癩病者への視座の転換

2023-04-23 | 文学・思想
久しぶりに「アシッジの聖フランシスコ」第一幕を聴いた。小澤が指揮した初演実況のCDボックスである。特に三景には心打たれた。聖人の逸話から癩病者に奇跡を起こす場面である。以前はグリム童話とかと同じようにただの奇跡話の段ぐらいにしか思っていなかった。因みに脚本は作曲家自身のものである。

つまり、聴衆は聖人の奇跡を劇場的に第三者的に観察していて、「流石に隣人を愛す聖人の為すことは偉業であり、神に祝福された行いだ」程度の理解だった。するとその音楽はどのように作曲されているのかとなる。要するに「水戸黄門的な待ってました」に付けている音楽なのか?

今回の気付きは、そもそも癩病者の表現にも関心が向かったことにある。これは神をも呪ったデーモンによって支配された人となる。それは丁度先頃の「影の無い女」の女たちのその憂鬱とも重なるのである。ここでは救いもなく不可避な痛みと自らの腐臭で神をも呪う。そして聖人に抱かられて、祝福されて奇跡が起こり、その後日陽が過ぎて、救われた心で昇天する。

その通りなのだ。この二月からのプロジェクトで、この癩病者のそれはまさしくローマンカトリックにおけるに原罪へと繋がっていることが知れたのである。痛みを伴う苦ということである。そうなると最早第三者の立場ではなくその癩病者立場へとこちらの主観は移ることになる。そこに仲介者としての天使が語りかけると言う形になっている。まさしくそのように創作されている。

この視座の転換はこのもはやオペラではないそしてオラトリオでもないまさしく音楽劇場としか言いようのない作品においてとても大きな意味を持つのではなかろうか。つまり、共感に満ちた普遍的な立場で鳥の囁きを聴くというような感応が問われている。

特に今回の新制作上演では、二幕において皆が一緒に戸外へ出向きそこの森の囀りつまり天使の声を聴くというような上演形態になっている。つまり「巡礼」とはされているのだが普遍的な立場に語り掛けられるのだろう。

小澤の演奏は初演にありがちな兎に角音化することに最大限の目標が定められている。その分明らかに和音の鳴り方などがぶっきらぼうである。その点、今回ティテュス・エンゲル指揮の演奏にとても大きな期待が寄せられるのは、ザルツブルクで経験したケントナガノ指揮の様な交響的な響きでもなく、その和音の特に五度の和音なども含めてその響きの断章の見えるような響きが期待される。決して鋭角に切られたもののようである筈がない。



参照:
おもしろうてやがて悲しき 2023-04-20 | マスメディア批評
原罪のエクスタシー 2023-04-16 | 文化一般

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