Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

アルペン交響曲の心理

2023-07-30 | アウトドーア・環境
本年五月にミュンヘンのイザールフィルハーモニーでアルペン交響曲が演奏された。そこで曲間に登山家のメスナーがコメントを加えていくという企画だった。インタヴューで応えていて、作曲家が登った山とヒマラヤは全然異なるが、それでもこの交響曲にコメントすることがあるかということだった。

当然の事ながらこの交響曲で描かれている出発から登頂そして帰還の情景は典型的な感情であって、歴史的にもゲーテやハイネなどの描いたそれでもある様に居ながらにして、丘を登る以上のものを伝えるものがあるという見解を示している。

夜明けへの出発から、何処かでの地平線上の日の出、登頂との感情表現として理解できて、音楽や言葉や絵などが合わさることで、その辺りの丘を登るのとは異なるものを経験可能だと語る。

リヒャルトシュトラウスの音楽を聴いて、ここは登りの、頂上の、下りのどういう場面過を想像してみる。そこで、ライヴでお話しをする。決して書いたり読んだりしないという。音楽のライヴ感を大切にするのだと。これは恐らくこの企画で最も重要なコンセプトだったろう。なぜならば作曲家自身の経験を反芻しながらの創作を考えればその感覚はまさにライヴ感を伴うもので固定されたものではなかった筈だからだ。

特に音楽ともいえないような前奏の暗い響きについて質していて、メスナーはその心理に注目していて、準備万端を整えた不安だというのである。全て間違いないほど陥る不安で、頂上へと、人よりもはるかに大きな山への畏敬の念は、人が英雄として一矢を射るようなものなどではないとしている。要するに夜明け前の本質的な不安感であるとしている。

そして山へと向かう限り人は必ず死と向かい合っている。だから下山で戻る時いつも復を味わうというのだ。そしてその山の美しさがあるとすれば、本当に厳しい登山の中での感受であり、里から山を見ているようなことではその美しさに触れることがないとしている。

リヒャルト・シュトラウスの「アルペン交響曲」で描かれていることは、概ねこうしたことで間違いはない。実際には高い山に登っていなくてもアルピニズムの心理を描いている。そして、それは傾倒していた一部ニッチェの哲学でもあるかもしれないが、それ以上にガルミッシュパルテンキルヘン周辺の前アルペン地域におけるアルピニズム受容ということで間違いないだろう。その屋敷も一般公開されることになっているが、具体的にはあまり情報がない。



参照:
"ZWEIFEL SIND UNGEMEIN WICHTIG", REINHOLD MESSNER, BR-Klassik vom 7.2.2023
歴史的な感動のその時 2013-08-27 | アウトドーア・環境
これが三度目の正直か 2019-05-03 | 雑感

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