Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

和平に満ちた閉じた空間

2006-10-06 | 
イスラム評論家のアヤーン・ヒルシ・アリ女史が、厳戒警備の中フランクフルトのホテルでFAZのインタヴューに応じている。衝撃的な内容である。彼女はモガディシュ生まれのオランダ人で、現在米共和党のシンクタンクに従事している。

宗教としてのイスラム教と、ムスレムの信仰を別けて考えるべきとは、良く耳にする。だがムスリムの平和への誓いにほださえてはいけないと警告して、我々を驚愕させる。彼女は言う、西洋では真実を表明することが全ての前提となり、そこで初めて議論が成り立つが、アラブ・イスラム社会では非ムスリムに対して必ずしも正直である必要はないと言うものである。京都の街中で見聞きするような人間関係である。

ドイツ・ムスリム評議会の議長が日曜の TV討論会で、「ジハドなどは内輪の怖気心を克服する以外の何ものでもない。」と言おうが、若し正直ならば、「最終的には我々の宗教に従うだけで、和平などはどちらでも良い。」と言うに違いないとする。なぜならば、ジハドは先ず自身の葛藤であるのは事実としても、それを実践するために、日に五回の祈り、ラマダンの絶食、メッカへの巡礼があり、そしてその次の段階としてコーランに従う。そのコーランには、イスラムの教えに 従 う 限 り において和平があるとされるからである。

イスラム教においては、宗教と生活に差がないとされるが、全てはコーランとハディースに導かれる。この両書に導かれない全ての知は、ハラム(不浄)とされる。だからアラブ圏では学術書は殆ど訳されないと言う。つまり、啓蒙されたリベラル社会とイスラムは全然一致しない。若し一致と言うような思いがあるならば、それはムスリムとの対峙がなされているのではなくて、問題を霧の中に包んでごまかしているだけなのであるとする。

リベラル社会では、確りした論拠を持って議論をして、打ち負かされれば家へと帰り傷をなめるだけであるが、イスラムにおいては分かつ事無く相手を殺めるだけなのである。幸運にも全てのムスリムがこれに従っている訳ではないとする。しかし、預言者ムハマドに異議を唱えるならば、受容の余地はなく、敵意が向けられ脅しに恐々とすることになる。また、非モスリムがモスリムの同性愛者であるとき、ダーヴァと言う最初のお説教が課せられ、これを拒否すれば七つ目の義務であるジハドが効力を発すると言う。

これがイスラムの教えであると言うことなので、アルカイダの幹部が勧めるように、救われるにはイスラム教に皆で改宗するしかないようだ。つまり、共産党がその暴力革命を旨とするように、イスラム教は暴力による解決を善しとしているので、西欧で同様な警備上の監視がなされる根拠となっている。イスラム教は、信教の自由で護られているだけに過ぎない。

だから、学生が神の教えを真剣に学び、自らそれを両書に求めていくと、西欧のイスラム改革者の美的な言葉以上にビン・ラーデンの行いを求めていくことになる。つまり、多くの支持者がいて、ムスリムならは誰もがビン・ラーデンを理解出来ると言う。

ただ、ムスリムの彼への支持者が多数でないのは、信仰が足りないだけで、だからこそイスラムは教えを変えなければいけないと導かれる。そのために最も欠けているのは、ムハメッドの跡継ぎが殺されたため、預言者としての後継者の人物であり、また理論的な構築だと言う。

イスラムが余りに大きく、伝統的な宗教であるからこそ、我々はこれを聞くと驚くが、良く考えれば、何処の文化圏にもある極右とか極左とか呼ばれる狂信的なグループの原理主義でもある。謂わば、閉じた思考体系の中で真実を突き詰めようとすればするほど袋小路に嵌まって行く思考態度である。これは、宗教やイデオロギーに限らない。むしろ現代では分業化された自然科学的思考にこれが生じやすい。何かに絶対服従の神風野郎たちの精神は、張り詰めて高揚した状態なのであろう。なぜならば、閉じたと思える世界ほどユークリッド空間のように調和が取れて完璧で美しいものは存在しないからである。(続く

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