Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

代議制民主主義の補角

2015-09-23 | 歴史・時事
月曜日の午後を除いて雨がちな週である。雨降りの合間を掻い潜って、走りに出かけた。パンが欲しい。敢えて穴の開いた靴で濡れた山道を少し走って降りてくる。そして日本の民主主義のことが頭に浮かんだ。

丸山真男も戦後直ぐの1940年代にそれについて語っている。多くは二十世紀初頭の社会科学の研究の延長にあることだが、日本の特性をその学術的な基盤上で分析しているのだ。1948年の二つの講演原稿で、長野県で行われた教員再教育の文部省主催の講演会からのもののようだ。論文ではないので、熱心には目を通していないがざっと文字を雑誌をめくるように見た。

まさしく今話題となっている社会現象が話されていて、政治嫌いの背景から起こして、なぜに代議員による間接民主制だけではいけないかということが説かれている。そこには発展した官僚制社会と政治家の関係にも触れてあって、代議士性は経路が限られていて ― 恐らくどこかの独論文のエングパスの流用だろう、選挙が民意を示さないことが明確に示されている。

そこで、頭に過ぎったのが、日本の選挙制度の問題点であり、少し閃いたのが、合衆国で行われているような党員集会と選挙人の制度を合わせたような被選挙選出機構を、とても高価な供託金に代えることである。日本の政治の質が低いのは上の講演でも示されているようなその資金と既得権益の問題が結びついているからで、いくらでも優秀な者がいるにも拘わらず、政治には手を汚さない者が殆どだということである。

つまり、帰来の政治力をもつ者がその経済力に拘わらず政治に参加するために最も良い基準は、金ではなくて人を集めることにほかならず、少なくとも選挙期間中は連座責任を持つような支援者を五十人も集めるような者ならば最低の政治資金は税金から支援すればよいのだ。これによってボトムアップの政治が可能となるような優秀な政治家が次から次へと現れるに違いない。

考えてみれば分かるように、連座責任も持ってくれるような支持者が何十人も集まるような政治家はなかなかいないに違いない。いわゆる泡沫候補と呼ばれるような人たちが十人以上の選挙人を集めることはほとんど不可能だろう。反対に、市民活動家などはその日頃の活動の大きさによって確実な選挙人を集めることができて、それらが全国組織で連合すれば十分な政党要件を満たすことが可能になる。

こうした改革によって、政党助成金などがなくとも従来の政党も存続可能で、同時に力のない者はどのような素性の生まれであっても、経済力や知名度があってもまともな選挙人を集められないことは確実である。それ以外の政治資金の問題はあるが、少なくとも選挙資金の面では市民運動家などが大政党の候補者と同じ立場に立つことが可能となるのではないか。選挙の趣旨やシステムから問題点があるかどうかは分からないが、このようなことが一瞬浮かび上がった今朝だった。



参照:
違憲状態が終わるとき 2015-09-22 | マスメディア批評
ネゴシェーションの政治力 2015-09-19 | 歴史・時事

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