去る26日ハンブルクの裁判所にて、冒険家ライホルト・メスナーは勝訴した。2004年から継続していた、ナンガパルパットでの「弟ギュウンターを置き去りにした」としてその死を兄ラインホルトに帰した著書に対して、名誉毀損で著者の同登山隊仲間で友人のフォン・キーンリン氏とそれを出版した出版社を訴えたものである。
判決は、書籍「横断(超過)」の主張13箇所のなかで、メスナー自身が証拠を以って否定出来ない、流布とは認められなかった一点以外12箇所を流布と認知した。今回の裁判においては、メスナーが当時友人であったフォン・キーンリン氏に語ったとされる、ナンガパルバット横断の意志を証拠付ける1970年の日記への書き込みの信憑性が争点となった。つまり、当時の書込みであれば十分に信用出来る証拠として、一連の著者の推測の根拠となったのであろうが、その手書きが当時の書き込みかどうかを判定出来なかった事により、告訴人メスナーの勝訴となった。控訴請求は現時点ではなされていない。
この事によって海抜八千メートルで起きた悲劇が解明される訳ではないが、2005年に反対側の帰路のディアミール壁の下部で発見されたギュンターの死体と、再三に渡るラインホルトの説明で、多くの 事 象 は明らかである。
つまり、どのようなエゴと功名心が、たとえ実の弟を犠牲にした行動をとらせたとしても、高山病で弱っていた弟は、兄の後を追いつつ往路に登攀したルッパール壁を下らずに未知の壁を下降した。しかし、その行動中に帰らぬ人となったのである。
事象は、今後も幾らか明らかにされるかもしれない。しかし、その極限状態での判断やパートナーを見捨てた行動の心理や動機付けの 真 実 は、永遠に謎である。それは、ラインホルト・メスナーが語るように弟の最後を確認していない本人にも判らないことであるだろう。それは行動を起こすときに、平常においても全てが一つの目的に向けられて動機付けられているとはかぎらないからである。
例えば、「弟を無事に麓へと戻す」と「自分が無事に山を下りる」の各々を、この場合後者が前者の前提であるが、動機付けにして同じ行動を導くとは限らない。反対に弟の方からすれば、「無事に生還する」ことが「兄の野心溢れる行動を阻止する」ことと同義では無いのは明らかである。そこで、「弟のために可能な下降路を選択する」と「可能ならば横断してみる」が決して区別されて判断される訳ではないだろう。「仲間の救助を期待しない」と、もしかすると「仲間に一泡吹かせてやろう」が同じ動機つけとなっているかもしれないのである。少なくとも強い動機付けが無ければ、未知のルートを谷まで下りての生還は無かったであろう。
それらの逡巡は日常茶飯であって、その際の最終的な判断基準が必ずしも、その行動を意味づけて特長付けているとも限らないと言い代えることが可能である。むしろ、メスナー氏の述懐からすれば、「本能的に正しい」判断をしたのだろう。それがどうした心理であったかは、実のところ本人も判らないであろう。そうした真相が容易に分かるならば、そもそも文学や人文科学など必要ないのである。
上記リンクの3SAT放送VIDEOにおけるフォン・キーンリン氏へのインタヴューにて、黒澤映画の羅生門(芥川龍之介作「藪の中」)が例に挙げられているが、さて、フォン・キーンリン氏が問題の発言を日記に書き込んだ本当の動機は?
判決は、書籍「横断(超過)」の主張13箇所のなかで、メスナー自身が証拠を以って否定出来ない、流布とは認められなかった一点以外12箇所を流布と認知した。今回の裁判においては、メスナーが当時友人であったフォン・キーンリン氏に語ったとされる、ナンガパルバット横断の意志を証拠付ける1970年の日記への書き込みの信憑性が争点となった。つまり、当時の書込みであれば十分に信用出来る証拠として、一連の著者の推測の根拠となったのであろうが、その手書きが当時の書き込みかどうかを判定出来なかった事により、告訴人メスナーの勝訴となった。控訴請求は現時点ではなされていない。
この事によって海抜八千メートルで起きた悲劇が解明される訳ではないが、2005年に反対側の帰路のディアミール壁の下部で発見されたギュンターの死体と、再三に渡るラインホルトの説明で、多くの 事 象 は明らかである。
つまり、どのようなエゴと功名心が、たとえ実の弟を犠牲にした行動をとらせたとしても、高山病で弱っていた弟は、兄の後を追いつつ往路に登攀したルッパール壁を下らずに未知の壁を下降した。しかし、その行動中に帰らぬ人となったのである。
事象は、今後も幾らか明らかにされるかもしれない。しかし、その極限状態での判断やパートナーを見捨てた行動の心理や動機付けの 真 実 は、永遠に謎である。それは、ラインホルト・メスナーが語るように弟の最後を確認していない本人にも判らないことであるだろう。それは行動を起こすときに、平常においても全てが一つの目的に向けられて動機付けられているとはかぎらないからである。
例えば、「弟を無事に麓へと戻す」と「自分が無事に山を下りる」の各々を、この場合後者が前者の前提であるが、動機付けにして同じ行動を導くとは限らない。反対に弟の方からすれば、「無事に生還する」ことが「兄の野心溢れる行動を阻止する」ことと同義では無いのは明らかである。そこで、「弟のために可能な下降路を選択する」と「可能ならば横断してみる」が決して区別されて判断される訳ではないだろう。「仲間の救助を期待しない」と、もしかすると「仲間に一泡吹かせてやろう」が同じ動機つけとなっているかもしれないのである。少なくとも強い動機付けが無ければ、未知のルートを谷まで下りての生還は無かったであろう。
それらの逡巡は日常茶飯であって、その際の最終的な判断基準が必ずしも、その行動を意味づけて特長付けているとも限らないと言い代えることが可能である。むしろ、メスナー氏の述懐からすれば、「本能的に正しい」判断をしたのだろう。それがどうした心理であったかは、実のところ本人も判らないであろう。そうした真相が容易に分かるならば、そもそも文学や人文科学など必要ないのである。
上記リンクの3SAT放送VIDEOにおけるフォン・キーンリン氏へのインタヴューにて、黒澤映画の羅生門(芥川龍之介作「藪の中」)が例に挙げられているが、さて、フォン・キーンリン氏が問題の発言を日記に書き込んだ本当の動機は?
上の場合でいえば、ギュウンターはライホルトと同じ境遇にいた上に、嵐の中で十分に会話が出来ていたとも限らないです。私も似たような状況を経験していますが、なぜかグループが二つに割れたりするのですね。究極として、心理的肉体的弱さが突出して、第三者的な判断が歪曲されるのですね。
殺人の心境は、追い詰められた状況として似ている様に思います。通常の殺人犯罪では経験を積んでいるという場合は少ないので、本能的な判断が下されることが多いのでしょう。単独犯では、死体遺棄や損壊なども計画性よりもこちらが多いように思われます。
性犯罪を代表に極刑などが抑止効果を持たず、再犯性があるのもこうした犯罪の特徴でしょう。
殺人の報道も、公共性が高くないものが多いと思われます。また実際に、その犯罪心理と動機を明らかにするには週刊誌のたかが二三ページでは足りませんね。