旧約聖書を題材とする芸術作品は数知れずある。キリスト教から見た旧約聖書の世界の方が、ユダヤ教の扱うその聖書の風景と較べて寧ろ一般的であろう。ユダヤ教の聖書の芸術化で、その困難を示しながら且つ解決している例としてシェーンベルクのオペラ・オラトリオ「モーゼとアロン」が挙げられる。
この作品で扱われる世界は、旧約聖書の出エジプト記(モーゼの書第二巻)3-4章と32章である。一幕一場で、民の指導者モーゼは唯一の全能の神を呼び、二場で兄弟アロンと砂漠で巡り会う。モーゼによって語られるテクストとそれを支える基本音形の、そしてそれに関わる合唱の扱いが素晴らしい。モーゼとアロンのディアローグもこの神の存在する空間で進む。そしてその神は、決して姿を現すこともなく想像することすら出来ない。ここに舞台劇としての矛盾とその解決を指摘する向きが多い。
この作曲家は、自らのカノンに関連してマーラーの第九交響曲を、「マーラーは、ここでは私フォームの主観ではもう何も語っていない。客観的、殆んど情念もなく美を確立して、動物的な温もりを断念して精神的な冷静さの中でそれは収まっている。」と語っている。この流派に属するアドルノは、1963年にこのオペラについて、シェーンベルグが音楽的な主観性や宗教音楽としてのメディアによらず、音楽的な客観性を燃焼させたと評価している。これこそが、見えない神の表現である。これがこの作品の核のみならず、ユダヤ教文化の中心課題なのだが、それを偶像崇拝の禁止と定義しても何一つも理解出来ないのではなかろうか。
シェーンベルクの父はプロテスタントで、彼自身も友人の影響でプロテスタントの信仰告白をしている。そしてその後の発展を、トーマス・マンは小説「ファウスト博士」でアドリアン青年の神学から音楽への進路変更としてルター神学における二元論的な内部葛藤のなかで描いている。この部分を読むと、音楽を芸術・文学と置き換える時、アドリアンはトーマスとなり、このノーベル賞作家の肉声が聞こえてしまう。実際の作曲家自身は、後年の1933年にパリでユダヤ教へ改宗する。しかし既にそれまでの十年間に多くのユダヤ教を素材とする創作を残していることからすればこれは驚くに当たらない。これらは、上のような宗教的表現を可能にした重要な背景であろう。
またよく言われるように、この三幕まで完成されなかったこの作品が、バッハやヘンデルのオラトリオの流れを汲んでいながら、同時にヴァーグナーの「パルシファル」も宗教的表現で継承しているというのも、その本質を示しているのかもしれない。
シェーンベルクがここで行っている作曲も、「見えない摂理」に捕われている。そこでは、アロンが民に「目を閉じて、耳を塞いで初めて神を見ることが出来る」と言うように、または「神が見えない民だからこそ、神に選ばれた民」であるという論理、更にまた「語るアロンよりも、偉大な指導者モーゼよりも、偉大な神が定義付けられる。」という論理が思考を支配している。
しかしこれらの矛盾が全て、否定的弁証法と言うような論法で真価を示しているとなると、我々は今日の世界を見回しつつ確りとその「見えないもの」を見極めて行かないといけないことに気が付く。
参照:
蛇が逃れる所-モーゼとアロン(2) [ 音 ] / 2005-05-03
資本主義再考-モーゼとアロン(3) [ 歴史・時事 ] / 2005-05-04
この作品で扱われる世界は、旧約聖書の出エジプト記(モーゼの書第二巻)3-4章と32章である。一幕一場で、民の指導者モーゼは唯一の全能の神を呼び、二場で兄弟アロンと砂漠で巡り会う。モーゼによって語られるテクストとそれを支える基本音形の、そしてそれに関わる合唱の扱いが素晴らしい。モーゼとアロンのディアローグもこの神の存在する空間で進む。そしてその神は、決して姿を現すこともなく想像することすら出来ない。ここに舞台劇としての矛盾とその解決を指摘する向きが多い。
この作曲家は、自らのカノンに関連してマーラーの第九交響曲を、「マーラーは、ここでは私フォームの主観ではもう何も語っていない。客観的、殆んど情念もなく美を確立して、動物的な温もりを断念して精神的な冷静さの中でそれは収まっている。」と語っている。この流派に属するアドルノは、1963年にこのオペラについて、シェーンベルグが音楽的な主観性や宗教音楽としてのメディアによらず、音楽的な客観性を燃焼させたと評価している。これこそが、見えない神の表現である。これがこの作品の核のみならず、ユダヤ教文化の中心課題なのだが、それを偶像崇拝の禁止と定義しても何一つも理解出来ないのではなかろうか。
シェーンベルクの父はプロテスタントで、彼自身も友人の影響でプロテスタントの信仰告白をしている。そしてその後の発展を、トーマス・マンは小説「ファウスト博士」でアドリアン青年の神学から音楽への進路変更としてルター神学における二元論的な内部葛藤のなかで描いている。この部分を読むと、音楽を芸術・文学と置き換える時、アドリアンはトーマスとなり、このノーベル賞作家の肉声が聞こえてしまう。実際の作曲家自身は、後年の1933年にパリでユダヤ教へ改宗する。しかし既にそれまでの十年間に多くのユダヤ教を素材とする創作を残していることからすればこれは驚くに当たらない。これらは、上のような宗教的表現を可能にした重要な背景であろう。
またよく言われるように、この三幕まで完成されなかったこの作品が、バッハやヘンデルのオラトリオの流れを汲んでいながら、同時にヴァーグナーの「パルシファル」も宗教的表現で継承しているというのも、その本質を示しているのかもしれない。
シェーンベルクがここで行っている作曲も、「見えない摂理」に捕われている。そこでは、アロンが民に「目を閉じて、耳を塞いで初めて神を見ることが出来る」と言うように、または「神が見えない民だからこそ、神に選ばれた民」であるという論理、更にまた「語るアロンよりも、偉大な指導者モーゼよりも、偉大な神が定義付けられる。」という論理が思考を支配している。
しかしこれらの矛盾が全て、否定的弁証法と言うような論法で真価を示しているとなると、我々は今日の世界を見回しつつ確りとその「見えないもの」を見極めて行かないといけないことに気が付く。
参照:
蛇が逃れる所-モーゼとアロン(2) [ 音 ] / 2005-05-03
資本主義再考-モーゼとアロン(3) [ 歴史・時事 ] / 2005-05-04
オペラは大好きですが、シェーンベルクまではいきません。しかし、紹介された「モーゼとアロン」には興味を持ちました。衛星放送かハイビジョンで放映されるようなことがあれば、ぜひ、見たいと思います。
弁証法とはまた懐かしい言葉ですが、最後の方は私には少々難解です。
ドクトル・ファウストゥス…懐かしい本です。シェーンベルクにとっては不愉快なだけだったのかもしれませんが。
昨、5/3に私からトラックバックしたのですが、その前夜にも3度も送っていたのです。反映されていないけれども、新しく送る前に削除できたらいいと思っていて、つい、貴兄からのトラックバックを誤って削除してしまった次第です。
難解とコメントしましたが、(2)か(3)と、続きも読ませていただいております。
何よりも、シェーンベルクの難解な内容のオペラに幾らかでも興味を持って頂けただけで大満足です。勿論視点は幾らでもあるのでしょうが、難解な理由が分からないと歯が立ちませんね。音楽は、演奏が紐解くどころか糸を絡めて仕舞う事すらある訳です。このような曲は、管弦楽だけでなく合唱部分も確りと歌って貰わないと厳しいですね。格別な美しさのある作品です。
ネットの技術的トラブルでご迷惑をおかけしているようです。
夢のもつれさん、コメントありがとうございます。12音がキーワードだったのですが、アイヴスは好きなどでお邪魔させて頂きました。序でにこの場を借りますと、シェーンベルクの12音を相対的に使った中心時期にあるようなこの作品でも、こうして基本理念を見て行くと明快で-矛盾するようですが-解かり易い曲になっていると思いました。和声構造や作曲法も違うこの作曲家の最後期のマーラーの創作への見解は非常に興味あり、アドルノの見解にも溜飲が下がりました。ある意味、マーラーの9番、10番の方が内容の解析は難しいと思います。
「ファウスト博士」への資料集めと作曲家との交際は、この作曲以後に頻繁でその「すれ違い」も含めて一度纏めたいと思います。今回はその序章と言うことで。
マンの作品にしても、マックス・ヴェーバーの音楽社会学にしても学生時代に歯が立たなかったのを思い出します。全くドイツ人の徹底性と言ったら……
文学や数学へのご関心など、私の幼稚な記事と関連したコメントをしたかったのですが、これまた歯が立ちませんでしたw
勝手ながら、拙ブログにリンクさせていただきました。よろしくお願いします。
私は勉強・読書不足で、ヴェーバーなどは名前だけを知っていただけで読む気もしませんでしたが、こうして暮らしているうちに自然にその意味が分かってきました。恐らく、欧州に住んでいなかったら、文章も含めて分からないことも多かったと想像します。時代が要求している認識でもあり、少なくともネットで拾える分だけでも流し読みして行きたいと思っています。
今後とも、こちらこそ宜しくお願い致します。
それ程、全体のイメージとしては繋がっていたという事でお許し願えればと思います。
ご親切にコメント有難うございました。
私のしがない日々の観察記を、シェーンベルクなどに重ね合わせていただいて申し訳ない気分になります。出エジプト記という言葉だけが共通項のようなものです。
とても興味深そうなサイトですので、これからじっくり読ませていただきます。とりあえずご挨拶まで。
ただその意味するところが新旧大陸では大分違うものと想像しています。モスリムや中華人の存在は、数は多くとも文化的に影響が殆んど無いというところがキーポイントでしょう。
こちらこそ宜しく。