Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

危うく逆走運転手指揮

2018-06-26 | 
「パルシファル」一幕である。ラトル指揮のフィルハーモニーでの演奏に16カ所ほどチェックを入れた。間違い探しではなくて、注意箇所だ。三連符を入れた最初の四分四と六が組み合わされて、長いデュミニエンドがあって休止から繰り返されるが、そのあとの九拍子へと楽匠のとても動機的な扱いが精妙だ。ラトルの指揮は、引き摺るようなことが無く、とてもよいので、余計に初指揮のペトレンコのこの前奏曲の扱いを想像するだけでもゾクゾクする。リズム的にもとても面白いところであるからだ。その後の信仰の動機による「アウスデュルックフォル」の盛り上がりでコールアングレとヴィオラが並行するのだが、やはりこの楽団ではしっかり弾けていない。明らかに非力であるというよりもアンサムブルの方法の問題だろう。やはり楽器群ごとにゆっくりと管と合わせて弾かせる位の練習をしないと駄目だ ― ここが世界の頂点との差なのだろう。恐らくミュンヘンの座付き管弦楽団は今回綺麗に合わせて来ると思う。

幕が上がってゼーリックのグルネマンツの歌が始まるのだが、舞台の上では「Nun」とかの力む楽譜にはない音が気になって、これならば脱力のパーペならば今回もう少し上手く歌える可能性があるとも感じた。それはその後三連符やシンコペーションの表現にも関連していて、その歌の力み通りに進行してしまっているので、折角の創作の妙が目立たない。この舞台神聖劇を通してとても重要な点だと分かった。十八番にしているパーペとペトレンコの腕に期待したいところだ。

アンフォルタスのフィンレーは、やはりゼーリックとは反対に、言葉と言葉の繋がりをつまり音符と音符の繋がりを丁寧に制御していくだろうゲルハーハ―とは反対に、あまり決まらない。バーデンバーデンでのFAZ評は大分期待されていたが、やはりここでも全く十分ではない。同じようにオーボエのケリーが同じように滑ってしまっていて、先頃のマーラーといいここでも期待してしたほどではないのだ。そうしたシンコペーションをチェロが声に合わせるとしても、ミュンヘンの座付き管弦楽団ならさぞかし上手に合わせるだろうなと言うところが全く出来ていない。要するに奈落に入るとか板の上で演奏するとかの物理的な問題ではない技術の問題なのだ。勿論指揮者の責任でもある。

管楽器においても二拍目と三拍が結ばれて歌詞の律動に合わせられたりの創作自体が音楽劇場的な処理なのかもしれないが、まさしくそうした中声部の書法と演奏実践の感覚が座付きと呼ばれるものなのだろう。ゲヴァントハウスのそこがベルリンのそこよりも優れているとしたら関連があるかもしれない。グルネマンツの語りでは様々な動機が出て来るのだが、ラトル指揮ではあまりにも配慮されていないかのようにしか演奏されない。つまり楽譜で見ていてもただ不思議な楽想の動機となっていて、演奏自体が有機的な意味付けを持たなくなり、余計に演奏がぎくしゃくする。

アンフォルタスの「癒えぬ傷」のところでは、三連符でシンコペーション効果が出ているのだが、ここがまたリズム的にも難しく、一つの山なのでペトレンコ指揮でのゲルハーハ―の名唱が待たれるところだ。ここでは指揮が悪いようでとてもぎくしゃくとしている。

その後のミステリウムへと繋がると、その歩行のテムポから中庸にへとアクセルを踏み込んだりするのが極端で、その繋がりの難しさをどのように料理するかの聴き所なのだが、なぜかベルリンではバーデンバーデンで程うまく進んでいない。恐らくラトルのそのままのテムピではそのようになってしまったのが、バーデンバーデンでは劇場の制約で逆にあまり目立たなかったようだ。要するに楽匠の舞台の経験則でそのように書かれているという方が正しいのだろう。経験豊かなペトレンコなどの指揮では、舞台上でもしっかりと劇場のテムピを取れるに違いない。

まさにこの辺りは、反対ハンドルの外国で事故を起こさなかった運転手が ― つまり劇場で「事故」を起こさなかったコンサート指揮者が ―、自国に戻って来て逆走してしまったという話しにとても似ている。私はそこでの不自然なテムポ取りをそのように聞いた。(続く



参照:
叶わなかった十八番 2018-06-21 | 文化一般
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音

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