Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

拓かれる新エポック

2024-10-07 | 
承前)前プログラムから記録としてきた。そして今回の演奏会で可也重要なことがあった。それはプログラムに「楽章間での拍手を控えるよう」にと明記してあったことだ。これは初めて見た。なるほど最近は楽章間での拍手が復活してきていてトレンドにさえなっているからだが、それ以前はマナーとされていたことである。

これはとても興味深く、必ずしも主催者のアルテオパーの見解とは思われなく、楽団の指揮者の意向と考える方が自然かもしれない。抑々19世紀の演奏会における浪漫派からの流れでは一興行内での継続した時間の流れの演出が大きな意味を為した。然し、それ以前の古典は音楽においては必要ならばアタッカと称して三楽章と四楽章を続けて演奏する指示を譜面化した。ベートーヴェンの運命交響曲に有名だ。

これは今回のプログラミングにおいてブラームスのドッペルコンツェルトそして後半のマルティヌーにおいても意味があった。逆にブラームスでは楽章間に拍手が入るようなそこまでの熱演とはならなかった。

大きな理由は二人のソリスツの音量による。特にチェロのガベッタは40歳のようだが小柄で地声も高くとても可愛らしい女性である。そしてその楽器もハビスロィティンガー財団からストラドのドブレスッジア1717年を都合されているにも拘らず、合奏用に1730年製のマテオゴフリラーのものを使っていて、音も鳴らないが特に低い方よりも上の方に輝きがあり軽い音の楽器である。ブラームスにおいても大会場ではバスも鳴らない。所謂胴声のするブラームスでないことは肯定的だったのだが、合わせたフランクのヴァイオリンもグアルネリで中域に寄っている。背後の交響楽団も全く弾けていなかったのだが、これでは会場が盛り上がらない。

それで販促の写真に弓をこちらに向けている表情が写されていて、それが本人の好印象とは異なっていて残念に感じると同時に、やはり写真だけでも攻撃的な印象を与える戦略だったのだと理解した。

音楽的には、ヴィルデ・フランクのベルリンのブラッハー門下でクロンベルクではチュマチェンコに習うなど、可也引っ掛かる弓遣いに対して、チェロもそれほどつるつるとさせることもなくとても上手に処理していて、先入観での南米出身のぺラペラさは最小だった。

そうした純器楽的興味がこのプログラミングにおけるコンセプトの軸に深く関わっている。最後の曲においてもその奇想冗談曲と内容が対象化していて、ブラームスの新古典主義こそがまさしくその対照性の創作であり、マルティヌーも交響曲に取り分けノルマンディー上陸などの時局を含めた時代の気分を閉じ込めてある。

そうした表現は決して人工知能的な再現では不可能なものであって、創造や創作行為が如何に歴史的なコンセンサスの上に培われていて伝統になっているかということをそこに再確認することになる。時代の趨勢ということもあるが、そうしたエポックによって、初めて歴史的な推移が確認されるところであり、それによってまた新たなエピックが生じる。それは必ずしも進歩主義的なイデオロギーとは異にする科学的な視点でしかない。



参照:
春以来のクロンベルク 2024-10-05 | 音
ワクワクの集積オペラ 2020-12-16 | 音
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