Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

春夏秋冬の祭典

2024-10-09 | 
承前)ムストーネンは指揮者でもある。後半のバッハのあとの二曲目が当初のバシェヴィッツの弦楽のための協奏曲から変更になってギナステラの弦楽のための協奏曲となった。コントラバスで高域で演奏させて、ヴィオラに繋ぐなど、殆ど武満徹の様な非常識な楽譜を1966年に書いているので、1916年アルジェンティン生まれだが、音楽的には似ている。指揮は、敢えてギリギリのテムピを狙ってくるようなところもあり、チェロなどは明らかに挑戦スタイルになっていた。そうした手法ばかりではよくないのだろうが、少なくとも客演であそこまで一生懸命弾かせれば先ずは偉いのではなかろうか。この選曲などからムストーネンの作品を聴かないでもほぼ見当はついた。作曲の先生がラウタヴァーラというのも納得である。

そのピアノといい、和声の積み重ねの中で音楽を奏でていくのではない、やはりシベリウスなどからの独自の音楽話法が支配している様に思われる。そこからあのフィンランドのパメラ門下の指揮者がどれもこれも駄目な理由がそこにあるのがよく分かる。

さてお目当てのヴィヴァルディ作「四季」である。イムジチを聴いたことがあるのが思い出せないが、今回三四半世紀も経て漸くこの曲のヒットの秘密を認めた。四季感以上にやはり描写が巧い。それを弦の新しいテクニックを駆使してということでやはり他のヴァイオリン協奏曲集に比較しても表題的内容がぎっしりと詰まっている、

ヒットの頃にはヴィヴァルディがオペラ作曲家であったというプロフィールはあまり知られなかったのだが、現在では全曲録音などもぼちぼちと出ていて、こうした表題的な意味もより詳細に想像できるようになって来ている。音楽に歌詞が付く価値はやはり大きい。

然しその様な解説がなくても春夏秋冬の各々三楽章のその場面は分かる。今回のヤンセンの演奏はどちらかというとヴァイオリンの技術的面をより洗練させて音楽化する傾向が強く、敢えて表題的に合わせた演奏はしなかった。それでも春の鳥の鳴き声の模倣でも若いコンツェルトマイスターリンが応えてもやはり全然その歌の巧妙さが違う。そして舞曲的な扱いも巧い。顕著なのは夏の嵐なのだが、やはりそれはあまりにも激しく最早46歳なのだが元気があり過ぎる。それ程しなやかではないのでどうかと思っていたら、成程ドライヴ感が可也強く、音楽的にそこまでやる必要があるのかどうかとは感じた。それは平素からより大きな会場で弾いているからではないかとも思う。

その様な演奏なので、秋におけるワイン祭りで酔っぱらって落ちていく雰囲気も決して強調されることはない。それでもここぞという技巧が挟まれる時には鮮やかに弾き切る。そうなると余計に狩りにおけるホルンの歌などのしっかりした音楽要素が浮かび上がる。冬などにおいても三楽章など表題から離れるほどに音楽的な面白さが浮かび上がるために見事な出来となり、熱狂的な反応となった。

ヴァイオリンの演奏はソロ演奏から協奏的なものまで様々な演奏を聴いてきたが、やはりこれだけの音で中会場でこのクラスの演奏家が弾くと全然異なることを感じ入った。同じように素晴らしいホールで数年前にチューリッヒでモーツァルトの協奏曲を聴いた時はこれ程に素晴らしくはなかった。楽曲による差も大きかったのだろうが、本人の演奏も明らかによく鳴っていた。(続く)



参照:
音楽後進国ドイツの野暮天ぶり 2017-08-01 | 雑感
玄人らしい嫌らしい人 2019-01-18 | 音
コメント
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