Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ブロムシュテットの天命

2019-02-14 | 文化一般
またもやブロムシュテット講話に嵌ってしまった。切っ掛けは、一昨年のシーズンにおける「アインドイツェスレクイエム」の自身の投稿への観覧歴があったのでそれを見返して、その動画のリンクを探ったところからである。当然ながら今は切れている。それどころか連続放送の途中からクレームが入ったのか、最後まで番組放送も見れなかった。理由は不明だが、オンデマンド放送を止めたのはダルムシュタットの宗教法人の決断だった。だからその続きは見れていないが、同時期つまり2012年当時に収録した映像が出てきた。こちらも様々な会場からの映像が使われているが ― なんとゲルハーハーが練習で歌う画像まで見れる、なぜかDL可能なのだ。ゲルハーハー自身は典型的なミュンヘン人で子供合唱団から出てきた人だからカトリックで、この番組のプロテスタントな宗教とは直接関係無い筈だ。

そうした宗教的なレッテル付けや感覚を超越するところまで伝道するのがこのブロムシュテットの講話である。インタヴュー番組が二つあって、全部で四部に分かれていて、合わせて一時間半を超えている。結局全部一挙に見てしまった。それでも伝記的な三部作よりも別途のインタヴューが音楽的な内容として一番面白かった。それ以外では、フルトヴェングラーがヴィーナーフィルハーモニカーとブルックナーの五番を振りにストックホルムに来た時の逸話が興味深い。

青年音楽家ヘルベルトは感動して、フルトヴェングラーを遠くからでも一目見たいと楽屋口で待っていた。するとフルトヴェングラーが体を震わせて出てきて、癇癪を起して「ストックホルムではブルックナーはもう二度と振らない」と怒っているというのだ。つまり、多くの聴衆は、ああブルックナーかと、まあまあという気持ちで予習もなく聞いていて、それをフルトヴェングラーが怒っていたと理解したらしい。15歳からブルックナーに何気なく熱を入れていた音楽家は「もっともっとスエーデンでブルックナー」をと思って、実際に指揮するようになってから半世紀を経て、楽員が「こんな音楽を奏でられる幸せ」とその価値に感動するまでになったという。

フルトヴェングラーが、ベルリンの聴衆を捨てて他所で指揮をしても仕方がないと、ナチ第三帝国に留まったことはファンなら誰でも知っている。しかしその真意を量りかぬところもあって、読み替えれば、ナチのイデオロギーであった「アーリア人種の優位性」と同意義にもとれる。そしてこのブロムシュテットの証言はその疑惑への一つの回答を与えてくれると思う。

更にブロムシュテットご本人のブルックナー像も語られる。この点で注意したいのは、話者はプロテスタントであって、ブルックナーはカトリックという大きな文化土壌の差があることで、実際にその演奏実践からそれほど違和感はないが、話しぶりからすると本来の全てを包み込む大らかさからより核心へと向かって切り取られている感は否めなかった。

ブルックナーのフィナーレで典型的なその音響が鳴り終わってから「魂が飛翔していく感じとその余韻」は、この指揮者の演奏会での特徴となっていて、なぜか日本ではそこが特別な意味を持つようになっている。私などからすると、あの指揮棒を置いてからの長さはプロテスタントの信仰告白を超えたドグマに相当するものと感じて、どうしても邪魔したくなるのだ。ドイツでは一般的にあのやり方は大きな違和感を以って待ちきれないものと捉えられる。しかし日本ではそれが恐らく都合よく曲解されていることぐらいは、新教徒ブロムシュテットならよく分かっているだろう。しかし絶対そのようには語らない。それが指揮者ブロムシュテットの「天命」だからである。

氏の経歴の中で一時期新しい音楽に従事していて、とはいってもヒンデミットなどのようだが、マルケヴィッチをザルツブルクに学びに行くなどしたのだが、「現代音楽の多様な様式を扱うことで沢山学べるが、古典はそう簡単にはいかない」というのは全く正しい。指揮などを技術的に克服出来る出来ない事とは別に、そうした古典を解釈するというのは正しく氏が言うように聖書を読み解くのと変わらない。難しいのは「古典には基準」というのがあるということだ。「英雄」の新しい批判版と楽友協会の古いアーカイヴなどを比較して葬送行進曲の楽譜の「アクセントかデイミニエンドか」の相違をいつものように歌って説明している。そうした学術的な準備が欠かせないのは当然で、これに関しても正論であり、私が言うのもおかしいが、「超一流の技術(や知識)を持つ者が必ずしも一流の音楽家ではない」ということをよく表している。

もう一人カラヤンらしき人物が話しに登場して、自己の成りを評価させてそれでよしとする姿勢を、もうそこから「なにも挑戦しなくなったところで終わりだ」と厳しく捨て去る。それもここでは啓蒙思想的な今日より明日の進歩を超えて、「新教であろうと旧教であろうと、イスラムであろうと、原理派ユダヤ教であろうと」ともう一つ上の告白をする。そして休息日を金曜日の夜から日曜日としていて、これこそが恵みなのだと、それは創世記の通りの「信心」ではなくて「真実」であると信仰告白をする。まさしく氏のセヴェンデーズの宗派の教えの核心だろう。私はここまで突っ込んだ発言に強く心を打たれた。信仰はどうでもよいのだが、来週に迫った「ミサソレムニス」を心して準備しなければいけないと肝に銘じた。



参照:
アインドィツェスレクイエム 2017-11-13 | 文化一般
ペトレンコ記者会見の真意 2017-09-21 | 雑感
ヘーゲル的対立と止揚 2018-09-11 | 文化一般
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