Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

心より出でて、心に入らん

2019-02-19 | 文化一般
Von Herzen – Möge es wieder – zu Herzen gehen

日曜日のマティーネコンサート「ミサソレムニス」評が出ている。先ずはバイエルン放送協会のものである。自分自身そこには居なかったが、夕刻に再度目を通してみて、更にコンサートの様子を聞いたので、様々なことを考えた。先ずは形式で、指摘されるようにキリエはとても纏まっていて、最後のアニュスデイで戻ってくる形になっている。三部構成でそれで安心していると、合唱交響曲同様軍楽が外から聞こえてくる。要するに楽聖における形式というのは叙述法でしかない。

その評では管弦楽は完璧だが、合唱団はそこまで至っていないとある。具体的にはソプラノパートが一体化しておらず強さが無かったとしている。実際に練習不足か何かは分からないが、パートごとに練習量がそれほど異なるのだろうか。あり得るとすれば忙し過ぎて声が出ていないということはあり得る。管弦楽に関してその割には、舞台一杯にと書くだけで全く具体的な口述が無い。日本のクラオタは何とかシステムとか数字を書き入れるが、私はそれもあまり見かけたことが無い。そしてここではなんら数字が出ていない。

上の叙述法と絡んでテキストの問題が劇場のマガジンで述べられている。それによると楽聖のラテン語力が充分でなくドイツ語訳を手元に作曲したとなっている。これも実は日曜日の夕方の思索の一つで、ラテン語に楽聖がどのように音符を宛がっていたかということにもなる。異なる言い方をすればラテン語無視に器楽的に作曲されていないかという疑惑である。当時も今も誰も活きたラテン語を使っている訳ではないから、教会の伝統のミサ典礼とそれに纏わるグレゴリオ聖歌からの膨大な音化と抑揚の伝統でしかない。要するに楽聖にとっては、ドイツ語圏の教会で使われるようなアクセントが基準であったのだろう。それが既にゲルマニズム化していたとしてもおかしくはないだろう。例えばバッハのロ短調ミサと比べてどうか?

同時に上のソプラノパートへの指摘に見られるようにフーガやフガートにおける対位法的音楽の扱いである。そこから直接後期の弦楽四重奏団へと結びつけるのは容易いが、本当に第九を挟まずにそのように短絡してよいのだろうか。同時に長短の和声構造の音楽表現と考えるとまさしく後期の作風となる。するとこれまた第九は?との疑問が生じてくる。

その一つの問いかけとして、上の双方で指摘されているベネディクスにおける主観的な表現が、人によれば劇場的とされる。ここでまた「フィデリオ」における「暗闇から光へ」の誰もが楽聖のアイコンとして挙げるものだけでなく、ドンピサロとロッコの二重唱のその音楽に言及しておきたい。それについてまだ踏み込んで書けていないのだが、ここでとても重要になってくることを確信した。つまり、教会音楽、劇音楽、コンサート作品といったジャンル別とは異なるものは?主観客観もその一つかもしれないが、それだけでは足りない。具体的には、私たちがその音楽の付け方から楽聖を本当に身近に感じる作風か、または舞台的な効果が齎されていると感じるかの相違でもある。

言葉を換えれば、態々第九でもやったように軍楽を出してきて、驚かせておきながら「平安を与えたまえ」との給う態とらしさは劇なのかイデオロギーなのか?それならば、楽譜冒頭に「心より出でて-願わくば再び-心に入らん」と手書きしてあるのは?



参照:
MeToo指揮者に捧げる歌 2019-02-03 | 文化一般
「ミサソレムニス」な気持ち 2019-02-15 | 音
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