Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ドライさとかカンタービレが

2018-11-25 | 
「オテロ」初日の中継の正直な感想を、ざっと流しただけだが、書き留めておこう。自身の参考としたいからだ。来月二日にはストリーミング中継もあり、自身が出かけるのはそのあとなので、かなり印象が錯綜して時系軸が狂いそうだからだ。先ず、カウフマンのオテロはロンドンのそれはまともに聞いていないが、今回の公演の方が様々な角度から上手くいくのではなかろうか。どうも舞台も室内劇になっていて、音楽も前回経験したミラノスカラ座のゼッフィレッリ演出のそれとは正反対のようだ。つまりカウフマンがドミンゴに勝負を挑む必要がなくなった。同時にライポールト氏が言うように明るく軽い声のインテリのフィンレーのイアーゴも無理する必要がない。これだけで成功へのお膳立てが整っていると思うが、更にデズデモーナを主役にしたことで上手くバランスがとれていたのかもしれない。個人的にはハルテロスの歌はその声質の聞かせ方で音楽的な犠牲も少なくないので好ましくはないが、ヴァークナーの時のようには批判するつもりなどさらさらない。エミーリア役の若いウイルソンの声が清涼感になっていた。ロビーインタヴューを見たかった。

音楽的には更に詳しく見直したいが、少なくともフレージングの素晴らしさは統一されていた。ただしデスデモーナを代表的にアーティキュレーションとなるとそこまでは十二分に整備されていなかったのではなかろうか。おそらくこれは指揮者がそこまで徹底できるだけの経験に欠けたということかもしれない - キリル・ペトレンコはヴェルディのオペラを今回初めて指揮した。先ずアバド指揮の全曲盤を比較してみたい。管弦楽の精度も高いのは明らかなのだが、もう少しオペラ的にしっくりこないかと思った。アバドがどのような指揮をしているのかは初期の作品から演繹的に想像するしかないのだが、かなりドライに演奏してもカンタービレするところが、おそらく故人の最も優れた音楽性だと思うが、それに匹敵するだけのドライさか、カンタービレがあったかどうかの疑問である。

前回聞いたのがカルロス・クライバー指揮のドミンゴのオテロなので、既に言及したようにそれとの比較をする必要がないことが喜ばしいが、最終的に確認しなければいけないのは、まさしく、そうしたごつい演奏実践に比較して、どれほどその創作に新たな光を注ぐことが出来たかということである。恐らく来年のバーデンバーデンの上演はMeToo指揮者ガッティが振らなくなってもごつい管弦楽の響きが聞かれそうな一方、勿論今回の公演のようなオペラ上演としての高品質さは求められないわけだが、一方にはカラヤン指揮とまでは言わずとも大向こうを唸らすだけの上演が歴史的に存在したことでもあり、そこが最終的な評価のしどころだ。正直現時点ではそこまでは確信を持てなかった。少なくとも、「マイスタージンガー」や「タンホイザー」公演のような歴史的な意味を持つ上演とは言い切れない ー ミュンヘンでは私の知る頃のクライバーがこれを指揮している。

録音は二つとも成功したが、LINUXの方は四幕のフィナーレの手前で一秒ほど放送が飛んだ。WINの方もフィナーレでパルス音が二度入るが、飛んだところは確認しなければいけない。音質は、第一印象はWINの方が倍音が伸びて気持ち良く響くが、なにか位相がもう一つ合わない感じがする、要するに喧しい感じがする。それに比較するとLINUXの方は未だかつて聞いたことがないほどの定位感で、奈落の楽器の位置が手に取るように分かる。あそこでの録音のCDでもこれほどのものを聞いたことがない。高音云々以前にこれで決まりである。LINUXの方がはるかに良い。こうなるとFUJITSUのノートブックにLINUXをインストールしてみる価値を見出す。NASストレージが完了して、全てのデーターの移行し終えたら、HDDにLINUXをインストールしてみてもよいかもしれない。更にもう一つSSDを購入するのも方法だが、USB経由で外付けHDDからブートしてもよいかもしれない。



参照:
血となるワインの不思議 2018-07-06 | 文化一般
ペトレンコが渡す引導 2018-01-14 | 文化一般
コメント
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