Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

イアーゴに騙されるな

2018-11-06 | 文化一般
試飲会では一口小皿が出る。しかしこのミュラーカトワール醸造所のそれはラインガウのロベルトヴァイル醸造所の本格的なガーデンパーティーものとは異なる。片やその食い逃げを避けるためにも最低購買数を決めて、さもなければ最初に出した30ユーロは返ってこない。今年は結局最初から取られなかったが、要するに増えに増えた迷惑客は一掃されたことになる。しかしこちらのワイン街道の方は一本当たりの価格も低いが、それだけの予算を計上していない。当然であろう。

しかし、いつも楽師さんを都合していつも何か音楽をやっている。今年はユグノーでドイツに逃げてきた醸造家の代々の楽器を使って演奏していた。当家の先祖の作曲家のコレクションである。チェムバロであるが、音がメタルでなくてかなり木製の箱が巧く鳴っている感じだった。勿論音量も細やかさもないが、ああしたホームコンサートの程度にはとても都合よい楽器だ。近所に住んでいる祖国ロシアで習って来た女性奏者といろいろと話していて面白かった。なによりもその装飾音のあり方への言及で、何でもないことが腑に落ちたことがあった。チェムバロも特別馴染みがない訳でもあるが、なぜだろう。

初期モーツァルトやバロックとこの楽器の話となって、その装飾音が当然のことながらこの楽器では当然でしかないことだ。つまり早い楽想になればまだしも、遅い楽想になればそこまで楽譜を書き込んでいるようなバッハなどが特殊であって、適当な大きな流れ以外は埋めるように音を入れていくというのは至極当然であるということだ。後年のピアノのような弦が震え続けていればそこで和声が組めるわけだが、撥弦楽器の性質上出た音が直ぐに消える物理的性格が支配する。そんなことは皆知っていて、クセナキスなどの作曲のアイデアでもある物理特性である。しかし、そのことと装飾への節理が、なぜかすっきりと身についていなかったか?

これは彼女にも話したのだが、バッハでもなくグレン・グールドの演奏というのを知っていると、そうしたマニピーレンに馴染んでいると、本末転倒になっていたのではないかということだ。要するにグールドのチェムバロ演奏もあるが、そのピアノでの演奏に馴染むとなるとどうしてもその発想の転換から逃れなくなる。改めて、レオンハルト演奏のハープシコードでイギリス組曲の演奏を照査してみたくなった。

ベットに入るとタブレットが呟きへの反応を知らせた。誰かなと思ったらジェラード・フィンレーからだった。23日にミュンヘンで初日の「オテロ」でイアーゴを歌う。時刻からするとミュンヘン滞在ならば稽古の後だろう。そこで私の放送プランを見つけたとなる。この人の呟きは一度扱ったことがある。あの時は、イアーゴからアンフォルタスヘと変わる時だった。もしかしたらその時に気が付いたかもしれないが、今回はイアーゴである。

そのアンフォルタスに関して、後に聞くゲルハーハーとの比較になって気の毒だったが、評価の割にはそれほど感心しなかった。理由は分からないが、ラトルの指揮にも責任があったかもしれない。自由度が足りなくて窮屈な印象を与えた。今回はその点ペトレンコ指揮で間違いなく大きな体験をしているに違いない。主役のカウフマンやハルテロスに関しては何も想定外の驚くことはないだろうが、このフィンレーのイアーゴにはそもそも期待していたのであり、更に期待が高まった。それにしても三週間を切ってしまった。自身の訪問日程が12月の新制作公演後半の初めであるからついのんびりしてしまっていた。

フィラデルフィアのシーズンオープニングは国歌から始まった。やはり昨シーズンのイスラエル訪問の議論などもあり積極的な姿勢を示しているのだろう。流石に弦のメロディーラインも見事だったが、ただし病上がりのアンドレ・ワッツのグリークは弛んだテムピとリズムに苦労して合わせていて、これはこれでと思った。しかし後半のラフマニノフの交響的舞曲はペトレンコ指揮などと比べるもなく、あれではサウンド豊かな分だけ曲の本質から離れていくのではないかと思った。ネゼ・セガンもそこまでラフマニノフを読み込むだけの準備をしていないということで、こうなるとこの指揮者と楽団で上手に演奏して仕舞えることが否定的にさえ思える。

一曲目の新曲もアメリカらしい曲でそれ以下でも以上でもなかったが、全体を通して「星条旗よ永遠なれ」が一番聞かせた演奏会中継だった。今までで一番悪いかもしれないが、来週は期待したい。リサ・バティアスシュヴィリに合わせてのチャイコフスキーだからだ。上のような演奏ではオーマンディー時代のようにルーティンの演奏会が繰り返されることになり、質の悪い録音がまた繰り返しDGから増版されることになる。それを適当にボストン交響楽団と別けあってとなると目も当てられない。サウンドがいかしているだけにカラヤン時代の焼き直しにしかならない。



参照:
デジタルコンサートの新シーズン 2017-08-09 | 雑感
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする