Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

確立された芸術活動

2024-06-14 | 
承前)ジム-ラゲスの新曲「Trust me」初演はとても価値があった。厳密には前々日に同じプログラムがコペンハーゲンで演奏されたことから二回目になるのだろうか。それでもこの曲がそうした歴史的な意味があるのかどうか、それはまた別の話しである。

夜中中身近にハンディ―をおいて大事な人のことを考えて一夜を過ごす、そのような大枠の中で朝七時が繰り返されるとそのコンセプト自体は比較的単純である。その間にボサノヴァから、半音階的スケール、またはオスティナート、そして激しいアコードが破局的に響く。その秀逸さは音楽的にそうした旋回を構成してしまう音楽性でしかない。

まさしく頭の音楽には留まらない勘の良さが、こうしたシアターピースには欠かせない情感性を伴い尚且つ多用な視座をそこに現出させる劇場性と音楽的な表現力が限られた素材においてなされていたことだろう。

勿論彼女自体のシースルーな衣装での舞台上でのプレゼンスもこうした場を形成していた。それ以上にコロナの非接触時代のハンディ―による鬱屈とした社会が描かれている。私小説に終わらない音楽となっているばかりではなくて、舞台上では一人二役を演じる以上に我々聴衆の視座がそこに影響している。それは当然のことながらジョン・ケージにおけるパフォーマンスの流れも組んでいる訳だが、それがこうした大管弦楽を以って描かれるという成功はケージのシムプルネスもなしていない。

音楽素材としてのラップも上手に使っていた。既に様々な使われ方が為されているには違いないのだが、創作者が其の儘演じる強さは絶大で、インタヴューを読むとその時は創作者としての彼女とは異なり全体への視点を失っているかもしれないと語る。そうでなければ前記のような視点の交差が舞台上に展開しない。

後付けでインタヴューを読むとなるほどと思わせる。元々はクラシック音楽つまりバロックから古典派迄のエポックの音楽を習っていて、ヴィオラダガムバやスピネッテなどを弾いていたらしい。よって浪漫派は僅かであったという、そして今日の音楽を知るようになるとそこにはクラシックにおける形の決まった確立されたものとの対照として受け留められていることを知ったというのだ。

しかし彼女はその広義のクラシックに拘った。それがラップなどにおける素材の厳選屋扱いに表れている。だから、それがただ単に偶然に扱われている訳ではない。例えばルネッサンス音楽における流行り歌の本歌取りをどう見るか、はたまたチャールズアイヴスにおける素材をどう聞くかのような問いかけとなる。少なくともケージにおける偶然にまぎこまれた音の環境ではない。

彼女はこのことをその創作のプロセスをして数学的問題を解決するような創作過程だと語る。エンゲルとの対話は為されなかった。なぜかは分からない。そのシースルーの衣装や透けるようなポール脇でのイメージヴィデオにこの若い女性に感じるものとその作品の冴え方との間には大きなコントラストがある。そこまでを計算しての活動が徹底している。(続く)



参照:
今後へ問いかけインタヴュー 2024-06-13 | マスメディア批評
年間20ユーロの倹約 2024-06-08 | 文化一般

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