橋本屋吉次郎電子日誌

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大内氏館

2022-07-24 | お城巡り(続日本100名城)
南北朝時代の1360(正平15/延文5)年、大内弘世はに本拠を山口へ移転しました。
このときの居館跡が大内氏館で、「西の京」とよばれた山口の街に似つかわしく、城ではなく館として建てられたそうです。


毛利隆元は、山口進行後、大内氏の菩提を弔うために、館跡に龍福寺を移しました。


高嶺城近くの糸米川砂防園の駐車場から、約3km、クルマで10分でした。
「タクシーのお客様はここで下車 参道を歩いてお参りください」と案内板に書かれていました。

本堂脇に駐車場があるので、クルマはそこに駐めればよいのですが、



そうすると参道のこの美しい景観をショートカットしてしまうので、注意喚起するものと思われます。

最盛期の館は堀を含めると東西160m・南北170m以上の規模を誇る方形の居館で、京都の将軍邸を模しているとも言われています。



龍福寺山門
雨は、本降りになってきました。


豊後岩
この館には、当時珍しい蘇鉄が植えられていました。
まわりの岩は豊後国から舟で持ってきたものでしたが、故郷を恋しがって雨の夜は「豊後に帰りたい」といって泣いていたそうです。


龍福寺境内


大内義隆が興隆寺に寄進した梵鐘を再建したそうです。


大内義隆主従之追善供養塔
長門市大寧寺にある義隆の墓を原寸大に複製したものです。 
2000(平成12)年は義隆の450回大遠忌に当たり、それに因んで建立されました。


義隆辞世の句碑
「討つ人も討たるる人ももろともに如露亦如電応作如是観」
殺す人も殺される人も同じだね。露のように雷のようにはかなく消えていくものだよ。観音様が様々に姿を変えて現れなさるように、この世の中は決して定まらずに変化するようなものなのだな。
大内義隆は、戦乱で失われた京の文化を山口に再現しようとしましたが、家臣の陶隆房の謀反にあい、自決することになりました。


本堂


龍福寺資料館
所在地:山口県山口市大殿大路119



内容的に大したことことなく、200円は高いかな?
一番すばらしいのが、この大内義興像だったりします。



発掘、復元された池泉
1400年代末につくられ、1500年代中頃までつかわれました。




建物基壇
池泉の脇には建物があったようです。
ここから、池を眺めながら和歌を詠んだりしたのでしょうか。


石組かまど


塼列建物跡
塼(せん)とは煉瓦のことです。
中世では塼は蔵につかわれることが多かったので、ここに蔵があったと予想されます。


少し前の写真を見ると、このあたりは発掘調査で掘り起こされていましたが、
土をかけと戻されているので、あまりおしろいものは出なかったのでしょうか。


石組井戸


初期は、溝と塀で囲まれている程度だったが、15世紀中頃には空堀と土塁によるある程度の防御力を備えた城館になりました。
堀はさらに南側にも伸びていることから、土塁で囲まれた部分よりさらに南にも関連する施設があったと推定されています。

所要時間:約30分


山口市歴史民俗資料館
所在地:山口県山口市春日町5-1
開館時間:9:00~17:00
休館日:毎週月曜/年末年始

大内氏館・高嶺城の続日本100名城スタンプは入口で押すことができます。



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2 コメント

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まちがいなく (橋吉)
2022-07-24 07:48:50
>T2さんこんにちは
まちがいなく大内さんの功績だと思います。
後に入った毛利さんも立派です。前任者の業績はことごとく打ち壊してしまう狭い了見の人も多い中、よくぞ残してくれました。
返信する
Unknown (T2)
2022-07-24 05:42:05
最後の地図を見ても、道路が碁盤の目に・・・大内さんの功績でしょうか・・・
返信する

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