
ここ2年、毎年春になるとぎっくり腰をする。サポータで腰を固定し、シップと投薬で治療する。何か、根本的な治療はないのか。大学病院へ紹介状を書いてもらい、9月に受診した。結論は「このくらいの頻度の腰痛なら良しとしなさい」というものだった。
レントゲンでは、背骨の様子が丸みから尖ったものに変わり、一部、骨と骨の間が隙間が無くなっている。ドクターは「30歳から老化は始まっていますからね。毎月、ぎっくり腰になり、就労にも支障があるくらいなら手術しますが、年に1度なら、開業医さんで見てもらえばよし。腰痛とお付き合いください」という。老化、つまり死へのカウントダウンは、もう始まっているわけだ。そして、最後にお決まりの減量と運動のススメである。
そういえば、テレビではアンチエイジング商品の花盛り。化粧品から、健康食品やサプリメントまで、ほんとうに個人の感想が映し出される。不老不死は、まさに夢。
その死と向き合った日々を描いたのが、津村節子。夫で作家の吉村昭との闘病記『紅梅』だ。2011年7月刊行。
吉村昭は、平成18年に79歳でこの世を去る。最後は自宅で闘病し、「もう死ぬ」といって、自ら点滴のチューブを抜く。それまでの平成17年(2005)から翌18年7月までを描く。がんと糖尿病の夫と付き添い、作家としての日々も暮らす津村。一日一日、夫と病に立ち向かう壮絶な日々。
吉村は、若いころ結核の大手術をしているので、命の大切さを切に感じるとともに、生きながらえていることの負い目、幸福感を常に持っていた。吉村の几帳面さを物語るように、死の直前まで日記を書き続けていた。さらに、死後の妻の生活を案じ、葬儀のことまで遺言を残していた。
最後まで家族への思いやりと感謝の心を忘れない。
しかし、人は夫婦といえども、心の中は覗けない。真にわかりあえることはない。まさに生まれるのも一人、死ぬのも一人である。だから看病とは常に後悔を伴うものなのだろう。そういう意味で、この本は妻、津村節子の悔恨の記でもある。そして、自らの死まで生き抜く、決意の書なのだ。吉村の死後3年は看病の本を書くなという遺言は守られた。
レントゲンでは、背骨の様子が丸みから尖ったものに変わり、一部、骨と骨の間が隙間が無くなっている。ドクターは「30歳から老化は始まっていますからね。毎月、ぎっくり腰になり、就労にも支障があるくらいなら手術しますが、年に1度なら、開業医さんで見てもらえばよし。腰痛とお付き合いください」という。老化、つまり死へのカウントダウンは、もう始まっているわけだ。そして、最後にお決まりの減量と運動のススメである。
そういえば、テレビではアンチエイジング商品の花盛り。化粧品から、健康食品やサプリメントまで、ほんとうに個人の感想が映し出される。不老不死は、まさに夢。
その死と向き合った日々を描いたのが、津村節子。夫で作家の吉村昭との闘病記『紅梅』だ。2011年7月刊行。
吉村昭は、平成18年に79歳でこの世を去る。最後は自宅で闘病し、「もう死ぬ」といって、自ら点滴のチューブを抜く。それまでの平成17年(2005)から翌18年7月までを描く。がんと糖尿病の夫と付き添い、作家としての日々も暮らす津村。一日一日、夫と病に立ち向かう壮絶な日々。
吉村は、若いころ結核の大手術をしているので、命の大切さを切に感じるとともに、生きながらえていることの負い目、幸福感を常に持っていた。吉村の几帳面さを物語るように、死の直前まで日記を書き続けていた。さらに、死後の妻の生活を案じ、葬儀のことまで遺言を残していた。
最後まで家族への思いやりと感謝の心を忘れない。
しかし、人は夫婦といえども、心の中は覗けない。真にわかりあえることはない。まさに生まれるのも一人、死ぬのも一人である。だから看病とは常に後悔を伴うものなのだろう。そういう意味で、この本は妻、津村節子の悔恨の記でもある。そして、自らの死まで生き抜く、決意の書なのだ。吉村の死後3年は看病の本を書くなという遺言は守られた。