パンダ イン・マイ・ライフ

ようこそ panda in my lifeの部屋へ。
音楽と本、そしてちょっとグルメなナチュラルエッセイ

今だから「方丈記」 2 中野「講談社」

2019-08-25 | book
今だから方丈記 2 中野「講談社」

「すらすら読める方丈記」は作家の中野孝次、1925年(大正14年)- 2004年(平成16年)が、平成15年(2003)1月に書いた解説本。中野は方丈記を読み、鴨長明の考え方に完全に賛同し、自己投影する。文庫は平成24年(2012)年10月刊行、平成29年(2017)年3月で第9刷。底本は簗瀬「角川ソフィア」。

6つの節と37の細節に分ける。目次で、それぞれ、はじめのセンテンスを入れ、表題をつける。

細節の原文にはすべてルビがふられ、これがうれしい。下部には現代語訳を掲載。細節ごとに解説が入る。それも文章の解説だけではなく、自分の思いが語られる。「清貧の思想」でブレイクした中野節炸裂だ。

巻末には京都を主にした関係地図、庵の想像図も掲載されている。

中野の主観、人生観、思いを前面に出す。心地よい。市古岩波と同じ日平成30年4月2日に購入した。市古岩波の原文に徹した学者の作風と異なり、自我をストレートに出した中野講談社は人生読本ともいえよう。
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プラモの世界(8)姫路城

2019-08-18 | life
国宝5天守の一つ、姫路城。もちろん現存天守。






南側から



北側から


東側から


西側から
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プラモの世界(7)高知城

2019-08-12 | life
現存天守12の一つ、高知城。南に県庁、市役所がある。



タミヤ模型のクリアケース入りです。


東から。詰門が左手に


南から


西から。詰門が右手に


北から






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杉村三郎シリーズ「絶対零度」

2019-08-11 | book
宮部みゆきの作家生活30周年特別企画と銘打ち、オール讀物2017年11号に掲載された杉村三郎シリーズ「絶対零度」を読んだ。2011年11月の設定。娘の桃子は小学4年生だ。

杉村探偵事務所に10人目のお客さん、50代後半とみられる筥崎静子が訪ねてきた。嫁いだ娘、27歳の主婦の優美が、10月2日に自宅で自殺未遂を測り、病院にいるが、広告代理店に勤める26歳の夫、佐々知貴が、自分を娘と会わせてくれないのだと言う。

夫婦の相模原市のマンションから浮かびあがった、知貴の大学のOBスポーツサークルの最年長33歳の先輩の存在。さらに、団体のフェイスブックから、24歳の一員の3歳上の妻が10月4日にマンションのベランダから飛び降り亡くなっていたことがわかる。

優美の友人、大学在学のサークルの後輩、優美が入院している病院など、杉村の調査により、様々な点が線となり、疑惑を深める。
杉村は、オフィス蛎殻の木田ちゃんの助けを借り、IT技術で優美の居場所を突き止めるが。

杉村三郎シリーズ史上、最もいたましい事件と銘打つ。若い夫婦が招いた結末。
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海の祭礼 吉村 昭 57

2019-08-04 | 吉村 昭
海の祭礼

「海の祭礼」(昭和64年・1989)は、幕末の嘉永の7年間を舞台に、日本初の英語教師といわれるラナルド・マクドナルドと、通司として開国の激動を生きた森山多吉郎(栄之助)、そしてぺリーの黒舟来航を軸に展開する長編小説である。

1800年に入り、日本は北はロシア、南はイギリスなどのヨーロッパ諸国の訪問に見舞われていた。
あくまでも長崎を居転移にオランダのみを窓口として鎖国政策を頑として採り続けていた日本。
その中で、両親にアメリカ人とインディアンを持つロナルド・マクドナルドは、その人種差別に耐えかね、日本への思慕を募らせる。そして、1848年・嘉永元年(ペリー来航の5年前)、24歳の時、捕鯨船の船乗りとして日本に近づき、単身で北海道の利尻島に流れ着く。当時の通例で9月に長崎へ移送。そこで通史の森山栄之助と出会う。

森山栄之助は、外国の日本への来訪や捕鯨船員の漂着などの日本を取り巻く状況の変化に英語取得の必要性を痛感し、同時に自分の非力さを実感していた。
緊張感の中で使命感に燃え、長崎で、マクドナルドがアメリカに帰る4月までの8ヵ月間、必死で英語を学ぶ。栄之助29歳であった。

そのような中、嘉永6年(1853)6月にペリーが浦賀に来航、翌年も再来航し、日米和親条約を結ぶ。その後、栄之助は通詞として、さまざまな幕末の外交交渉の前面に出て活躍、神経をすり減らすことになる。

吉村はなぜこの時期にペリーの来航があったのか。アメリカの日本への接触の背景に、当時の経済発展があったとする。
捕鯨は、17世紀中から始まっていたが、舞台を大西洋から太平洋へと舞台を移し、日本海沿岸もその渦中となった。その船団の基地としての日本。
そして、当時の綿紡績の貿易相手として中国を重要視した。アメリカは国土の西への拡張ともに太平洋を視野に入れることとなったため、ヨーロッパやロシア各国に対抗するための太平洋航路開拓であったとする。

その後、栄之助は、まさに激動の幕末の激務のためか、明治4年(1871)に51歳でその生涯を閉じ、マクドナルドは明治27年(1894)にアメリカでその一生を終える。

開拓精神に燃えたひとりの若者は、目的を果たすことなく人生を歩んだが、その蒔いた種は、幕末の日本を救うこととなった。しかし、その業務はひとりの若者をあまりにも過激に燃焼させ、早世につながった。まさに幕末の外交外史ともいえる一編である。

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