パンダ イン・マイ・ライフ

ようこそ panda in my lifeの部屋へ。
音楽と本、そしてちょっとグルメなナチュラルエッセイ

ビートルズのすべて 2 イギリスを制覇(2)

2011-03-27 | ビートルズ
地元のアートスクールの学生たちが、ビートルズ目当てに訪れるようになる。
クラウス・フォアマンは、後にビートルズのジャケットを手がけ、ベーシストにもなった。、
アストリッド・キリッヘルは、写真を通し、ビートルズの可能性を探った。

そんな折り、ジョージが未成年、メンバーの滞在許可証の不所持などから、メンバーは順次、国外退去の憂き目に会う。

リバプールに帰り、意気消沈したメンバーだったが、やがて活動を再開。
1960年の暮れ、リバプールのホテルでハンブルグから来たビートルズとして凱旋公演を実現。皮のジャケット・パンツなどリバプールのグループとは異なるファッションが話題を呼ぶ。それにも増して、派手なアクションステージ、野性味あふれるエネルギッシュな演奏は大きな評判を呼ぶ。まさに、ハンブルグで確立した、ロックンロールを取り入れたビートルズサウンドがここにあった。

そして、リバプールのキャバーンクラブなど、さまざまな演奏の機会が増え、派手なステージ展開は評判を呼んだ。
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ビートルズのすべて 2 イギリスを制覇(1)

2011-03-21 | ビートルズ
カルチャーラジオ「芸術その魅力 ビートルズのすべて」の2回目は、「プリーズ・プリーズ・ミー」(Please Please Me)。ビートルズ、イギリスを制覇。リバプール、ハンブルグ 、そして、ロンドンへ・・・である。

1960年(昭和35年)8月、ビートルズはハンブルグ巡業を行う。
ハンブルグはドイツ北部の港町。緯度もリバプールと同じような位置にある。その最初の拠点はワインドアクラブ.
歓楽街にあり、寝泊りも隣の映画館であった。そんな劣悪な労働条件の中、当初、客の反応は冷淡で、リバプールとは違うショウアップしたステージ内容が求められた。演奏時間も1時間が、8時間ぶっ続け。のどがつぶれるほど歌わなければならない、また、客に受けるための派手な動き回るステージパフォーマンス。そして、最初から最後までフルボリュームでの演奏など。客はこれを喜び、ファンを増やした。持ち歌だけでは要望に応えられず、最新のヒット曲を次々とレパートリーとして取り入れた。

恐ろしいほどの曲を覚え、なんでもやった修行時代だったと、ジョージは語る。
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ビートルズのすべて 1 ビートルズの登場(5)

2011-03-20 | ビートルズ
1959年(昭和34年)、バンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージの3人が中心となり、バンド名が「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」となる。

1960年(昭和35年)、スチュアート・サトクリフがジョンに誘われバンドに加入。ベースを担当し、バンド名は、「ザ・シルヴァー・ビートルズ」になる。サトクリフは、1940年6月23日生まれの知性派で芸術、文学、映画に精通し、メンバーことにジョンに影響を与えたという。
1960年(昭和35年)5月にツアー参加、やがて、ビートルズに名前を変える。ビートルズの由来は、お気に入りのロックンローラー、バディ・ホリーのバンド名「バディ・ホリー&ザ・クリケッツ」のクリケッツ(こおろぎ)にあやかって、同じ昆虫のかぶとむしの名前、Beetlesではなく、Beatlesとしたといわれている。
また、ドイツのハンブルグ公演の誘いがあったが、バンドにドラムスがいなかったので、ピート・ベストに声をかけた。ピートは、1941年(昭和16年)11月24日生まれ。ピートの母親がクラブを開店し、ジョンやポールが出演していたことからハンブルグ公演に参加することとなった。
ビートルズの修行の場となったドイツ、ハンブルグへの旅が始まるのである。

第1回目で紹介された曲は、「ラヴ・ミー・ドゥ(Love Me Do)」「ロック・アラウンド・ザ・クロック(Rock Around The Clock)」「ハートブレイク・ホテル(Heartbreak Hotel)」「ロック・アイランド・ライン (Rock Island Line)」「ザットオール・ビー・ザ・ディ(That'll Be The Day)」の5曲であった。
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ビートルズのすべて 1 ビートルズの登場(4)

2011-03-13 | ビートルズ
メンバーの紹介。
ジョンは、1940年(昭和15年)10月9日生まれ。幼い頃に両親が離婚。エルビス・プレスリー、ロニー・ドネガンを知り、ギターを引き歌い始めた。
ポールは、ジョンの知り合いの紹介でジョンと出会う。1942年(昭和17年)6月18日生まれ。家庭環境もあり、小さい頃から音楽に親しんだ。ポールもロックンロールやスキッフルとの出会いでギターに親しんだ。1956年(昭和31年)、14歳で母が死去し、処女作を書く。57年(昭和32年)7月にジョンと出会い、ザ・クォーリーメンに参加する。
また、そこにポールの紹介で、ジョージも参加することになる。ジョージは1943(昭和18年)年2月25日生まれ。ポールは学校で出会う。兄とスキッフルグループを結成していた。

いよいよ、1958年(昭和33年)、ザ・クォーリーメンは自主作成のレコードを1枚作る。3人のほかに、ジョン・ロー、コリン・ハントンの5人組だった。
A面にザットオール・ビー・ザ・ディ「That'll Be The Day」(バディ・ホリーのカバー曲)。ジョンがリードボーカル、ポールがコーラス。B面に「In Spite Of All The Danger」(ポールが書いた曲)を収録。ジョンがリードボーカル。この2曲は、1995年(平成7年)に発売された「ビートルズ アンソロジー1」の1枚目に収録されている。

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東日本大地震

2011-03-12 | life
昨日のテレビ放送を見て、わが目を疑った。繰り広げられている波のうねりは、家屋や車を飲み込んでいる。ドラマではないのか、ジオラマの世界ではないのか。

マグニチュード8.8。観測史上、最大の地震である。それも、太平洋プレートの影響だから、東北、関東と海岸部を津波が直撃した。交通機関も麻痺し、移動の自由を失う。もちろん、家屋も倒壊し、火事も起きた。多くの尊い命も奪われた。東日本大地震は、今日も人々を不安に陥れる。政治もスポーツも「生活」の前には無力だ。

また、10日には、従兄が病気で72歳で逝去。昨年、11月、12月には、二人の伯父を亡くした。人の命のはかなさと、生かされている他力を感じる。

そんな中でも、梅は咲き始め、沈丁花はほのかな香りを醸し出す。自然のすごさに、人はおびえ、助けられる。


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ビートルズのすべて 1 ビートルズの登場(3)

2011-03-06 | ビートルズ
直接的な影響は、ロックンロールの登場だ。
1955年(昭和30年)のアメリカ映画「暴力教室」の主題歌、「ロック・アラウンド・ザ・クロック(Rock Around The Clock)」は、1954年(昭和29年)4月にアメリカで発表された。ビル・ヘイリーと彼のコメッツの曲。イギリスでも8週間全英チャートの1位を飾った。
さらに、アメリカで登場したエルビス・プレスリーが、1956年(昭和31年)3月にハートブレイク・ホテル(Heartbreak Hotel)で英国デビューする。次々にロックンロールがアメリカから紹介されてくる。

もう一つ、1956年(昭和31年)、ロニー・ドネガンの「ロック・アイランド・ライン (Rock Island Line)がヒットし、スキッフルミュージックブームがやってくる。
これは、アメリカのジャズバンドを元に、アメリカのフォークブルースやイギリスのフォークをもとに、イギリスで開花した。その楽器構成は、ギターと、茶箱に箒の柄を貼り付け、弦を張ったチェストベースや、洗濯板で、簡単に手に入るものであり、素朴で親しみにあふれた曲で、多くのアマチュアのスキッフルミュージックのグループが登場する。

このような戦後の都市の荒廃と、焼け跡とというの風俗の中で、音楽的には戦後の文化であるロックンロールをベースに、そして、楽器を演奏しながら歌うというバンドスタイルの中で、ビートルズは、1957年(昭和32年)、デビューの5年前、ジョンが結成したスキッフルグループのザ・クォーリーメンが母体となった。
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