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パンダ イン・マイ・ライフ

ようこそ panda in my lifeの部屋へ。
音楽と本、そしてちょっとグルメなナチュラルエッセイ

村上ラジオ2

2011-11-27 | book
村上春樹のエッセイ『おおきなかぶ、むづかしいアボガド(村上ラジオ2)』を読んだ。2011年7月発行。2001年に出た『村上ラヂオ』の続編だ。これも大橋歩のイラストが楽しめる。『anan』の2009年10月から2011年3月までの1年半にも及ぶ掲載をまとめたものだ。52の短編集。

好みのエッセイといえば、古くは物理学者の寺田寅彦のアカデミックな随筆集、取材を通して作家の日常に触れた吉村昭、家族や身の回りの出来事にするどい視線を投げかけた向田邦子、くだけた感じで、作者のイラストも楽しめる東海林さだおなどがある。

タイトルも2つのエッセイから。お気に入りは「三十歳を過ぎたやつら」。いつの時代でも、社会に疑問を持つ頃があり、そこに日々埋没する自分を見る頃がある。そんな矛盾に気づきながら日々過ごす自分がある。また、音楽や小説の力を解く「ベネチアの小泉今日子」だ。

私からすれば、村上春樹はまさに非日常の人。それが同じ目線で考えていることがあるのが不思議だ。エッセイの面白さは、そこにあるのだろう。

村上ラヂオ

2011-11-23 | book
当代の人気作家が、食や運動、音楽や家族のことなど、日常に触れるやわらかい空気とイラストの大橋の空気が、なんともいえず合うのである。この挿絵は、銅版にニードルという先の尖った金属で傷をつけながら絵を描いていく。いわゆる版画だ。細いシンプルな線が描く、白と黒の世界だ。そこに大橋のおおらかさとかわいさが同居する。お気に入りは「真っ白な嘘」の舌を出した女の子。

50のエッセイが醸し出す日常が描き出されていて、これが村上ラヂオの魅力だ。
好物の話「うなぎ」「すき焼き」「熱々のコロッケパン」「ちらし寿司」、童謡『赤い靴』の謎、柿ピー問題、なぜマッキントッシュが好きか、キンピラ料理とニール・ヤング、野球観戦には太巻き寿司、趣味は世界の中古レコード店巡り、夕方の髭剃りの快感、ドーナツの発明者、ドビッシーのピアノ曲『版画』、嘘の色、ジャズソング「恋している人のように」「柳よ泣いておくれ」、体重計好き、ジョギングの快感などなど。

いずれも、そうか、そうそうというものばかりだが、お気に入りは「ポケット・トランジスタ」。いわゆる「白骨の章」を取り上げ、音楽のない人生の耐え難さを訴えた。ある映画評論家ではないが、「ほんとうに音楽っていいものですね」だと思う。
村上もマイルス・デイビスからバッハ、アメリカンポップスまで幅広い音楽に囲まれて生きている。私の思考と同じ波長にあり、このエッセイへの共感が増した。

実はこの本を図書館で借りたのだが、落丁があり、村上と大橋のあとがきを読むため、新潮文庫を買ったという落ちがついている。

村上春樹と大橋歩

2011-11-20 | book
村上 春樹(むらかみ はるき)は、1949年(昭和24年)生まれの小説家、米文学翻訳家。翻訳も多く、エッセイ・紀行文・ノンフィクションの著作も多い。1979年『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞しデビュー。1987年発表の『ノルウェイの森』は上下430万部を売るベストセラーとなり、その他の主な作品に『羊をめぐる冒険』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』など。名前を聞いた作品も多いはずだ。小説家として、多くの話題作を提供し、国内はもとより、海外にもファンが多い。ノーベル文学賞の有力候補でもあるという。

実は、私は村上春樹を一冊も読んだことがない。そんな私がなぜ、エッセイ『村上ラヂオ』を読んだのか。この本は村上春樹文、大橋歩画のエッセイ集だ。週刊誌『anan』(2000年3月17日号-2001年3月3日号)に1年間連載され、2001年、マガジンハウスより刊行、2003年に新潮社より新潮文庫として文庫化された。10年も前の本だ。実は、この本の挿絵を担当しているのが大橋歩だということを、最近の新聞の人物欄で知ったからだ。

おおはし・あゆみは、71歳。週刊誌「平凡パンチ」の創刊号の昭和39年(1964)から昭和46年(1971)まで、表紙のイラストを担当した。大卒直後からこのイラストを担った。
まさに、第1次アイビーブームの牽引者の一人でもある。宮部みゆきの『模倣犯』のカバーも担当した。このエッセイでも、パンチの創刊の頃から、村上がこの雑誌の愛読者であることが紹介されている。

単行本化にあたり挿絵を倍にして発行したという。確かに4ページのショートの中に、1ページまるまる大橋の挿絵で、最後にまた大橋の挿絵が来る。つまり、1作品に大橋の挿絵が2作品掲載されている。


香り染み入る『峠うどん物語』2

2011-11-13 | book
重松清の『峠うどん物語』の下巻、5つの作品を収録。2008年から2011年にかけて、月刊文芸誌に掲載された。2011年9月刊行。

「柿八年」。 50年前に水害に襲われ、その時に現れた「柿の葉うどん」。新聞の特集で話題となり、その本人探しが始まった。よっちゃんのおじいさん、おばあさんは・・・。
「本年も又、喪中につき」。地域の人気の榎本医院。70歳前の先生の夫人にも死期が近づいていた。その息子は総合病院の医師として、母親を引き取る覚悟を父に伝える。
「わびすけ」。3年前の大晦日、峠うどんの厨房の戸棚から出てきた古い木札。そこには「御予約席」と記載があった。それから3年後の大晦日、おじいさんの幼馴染の「わびすけ」さんが訪ねてくる。木札に込められた2人の人生。しんみりとうどんの香りが漂う。
「立春大吉」。高校受験が近づいた冬、よっちゃんの同級生の大友君が、峠うどんに弟子入りしたいと言ってくる。一方、店に近いところにオープンした和食処「みやま亭」のメニューに柿の葉うどんが登場する。そんなある日、峠うどんに柿の葉うどんを新聞に投稿したおばあさんが訪ねてくる。
「アメイジング・グレイス」。おじいさんが、よっちゃんに「アメイジング・グレイス」のCDを買ってきてくれと頼む。そんな折、高校受験の日に、よっちゃんの同級生が自殺する。さらに、「わびすけ」さんが亡くなる。

いずれも、死を向き合う女の子を通じて、命の大切さ、温かさを伝える作品ばかりだ。生きている限り、死はいずれ訪れる。でも、決して陰湿なものではなく、これらの作品には常に、うどんのやさしく、手間をかけた香りが漂い、作品にやさしさをもたらす。大人から小学生まで読める。

香り染み入る『峠うどん物語』1

2011-11-06 | book
今、話題の『峠うどん物語』を読んだ。作者は重松清。1963年というから昭和38年生まれ。1990年代から小説を手がけ、学校での子供のいじめや不登校、家庭崩壊と子供など、現代の社会問題・教育問題の中で、小説で取り上げられることの少なかった子供のいじめ問題をルポルタージュばりの鋭い切り口で取り上げてから、一躍注目を浴びるようになったといわれる。

主人公は中学生の女の子。よっちゃん(淑子)。人口20万人の町の峠にあるうどん屋「峠うどん」が舞台。国道を挟んで向かいに、斎場ができたことから、名前を「長寿庵」から変えた、よっちゃんのおじいさん、おばあさんは70歳。ともに教師のお父さん、お母さんは、1962年生まれ。よっちゃんがうどんやに手伝いに行くのが面白くない。そんな舞台で、この斎場の近くにあるうどん屋に行き来する人々とよっちゃんとのふれあいを描く短編集。

上巻は、2006年から2008年にかけて、月刊文芸誌に掲載された。
「かけ、のち月見」は、お父さんの中学時代の同級生の病死、よっちゃんの同級生の暴走族の親戚の事故死をめぐる人々の感情を描く。。
「二丁目時代」は、お父さんを早く亡くしたお母さん一家が、市営住宅に住んだ頃、かわいがってくれた詐欺師が死期を迎えた。その頃ともにすごした仲間たちはどう受け止めたか。
「おくる言葉」は、お父さんの教え子のツッパリ野郎が住職になり、その小学校の恩師が死を前に葬式の導師を依頼してくる。
「トクさんの花道」。霊柩車の運転手のトクさんの別れた奥さんに死期が訪れる。トクさんの抑えた感情がたまらない作品。
「メメモン」。小学生の女の子が葬式の研究に斎場にやってくる。その曾祖母はすでに死期が。家族とは。
5作品を収める。

働かないアリ

2011-11-03 | book
昨年2010年の12月に発刊され、人気を博してる新書版、進化生物学者の長谷川英祐の『働かないアリに意義がある』を読んだ。長谷川は、1961年生まれ、50歳の著者は大学で動物の生態学を研究している。
「ミツバチのオスの寿命は1ヶ月で交尾のために生まれてくる」「アリは7割が巣の中で何もしていない」「年寄りのハチやアリは外交、外回りに出かける」。こういったムシ社会の実態をもとに、その理由を解き明かし、ヒトの社会を垣間見る。

「7割のアリは休んでいる」「働かないアリはなぜ存在する」「なんで他人のために働くの」「自分がよければ」「「群れ」か「個」か、それが問題だ」「その進化はなんのため」の章立て。アリもハチも人間も絶滅せずに生きている。自然災害や病気、戦争など、幾多の困難を乗り越えてきた。そこには持って生まれ、編み出してきた集団(コロニー)の生き方がある。これらを知ることは、これからの生き方を学ぶことでもある。

各章末にはポイント解説がしてあり、頭が整理しやすく、次章へ移りやすい。これは大学研究者がプレゼンでよく行う方式だ。

学問はあくまでも、ヒトの営みを考え、支えるためにある。そのために科学は役に立つことが必要だ。しかし、長谷川は、「役に立つことだけをやればいいのかということではない。なぜなら、何が役に立つかということは事前に予測不可能だからだ」という。つまり余力が必要なのだと。これは人間社会でもいえることなのだ。