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パンダ イン・マイ・ライフ

ようこそ panda in my lifeの部屋へ。
音楽と本、そしてちょっとグルメなナチュラルエッセイ

ビートルズのすべて(最終回) 13 ビートルズの遺産 ビートルズが残したもの(9)

2014-11-16 | ビートルズ
果たして、ビートルズはなんだったのか。何をなしえたのか。そして、私たちに何を与えてくれたのだろうか。
かつてジョンが語っていた以下のような言葉から、その答えの一つを見つけて出せるような気がします。
60年代は革命が起きた時代だ。金とか階級とかそういうちっぽけなものじゃなく、考え方全体における革命だ。まず、若者の間でおこって、それから次の世代に伝わっていった。ビートルズもその革命の一部だ。革命というより正確に言えば、進歩だね。みんなが60年代という一つの船に乗っていた。僕らの世代は新大陸を見つけに出た船のようなものだ。僕らはその船のマストのてっぺんに立っていたんだ。僕らはその船に乗り込み、自分たちがやれることをやった」。

そして、ポールは「僕らはある種の自由をこの世に与えたと思う。今でも、多くの人たちからビートルズのおかげで開放されたと言われる。僕らはいつだって自分たちに忠実だった。ビートルズの持っていた厳しいくらいの正直さがこそが重要だったんだと思う。僕らは自分たちの意思を曲げずに自分たちの思うことをそのまま言っていた。すると世間の人たちの間で、だれもが正直にものを言ってかまわないんだという考えが広まっていった。」
自分たちに、自分自身に正直で忠実であること、それを率直にありのままに容認したのがビートルズでした。

ロックンロール、リズム・アンド・ブルースやブルースを下敷きとし、それを結晶し、その本質を汲み取りながら、そこに天衣無縫な独自のスタイルを持ち込む、型破りな個性の持ち主であるジョン・レノン。

感傷的な郷愁に満ちた甘く、そして、親しみにあふれたロックバラードを手掛ける一方、パワフルで過激なハードロックも得意とし、すぐれたバランス感覚とふところの深さを持つ、ポール・マッカートニー。

繊細かつしなやかなギター表現にマニアックな追求の後が伺えるジョージ・ハリスン。

シンプルな音に徹した、みごとなリズムキーパーであり、グループの演奏の躍動の牽引者、そして、ユーモラスな持ち味がグループの緩和剤ともなったリンゴ・スター。

ビートルズはそのデビュー時、ビートとシャウトを取り戻しました。そして、感傷と郷愁を色彩豊かに表現して見せてくれました。さらに前衛的で斬新で画期的な試みを実践しながら同時に大衆的な親しみを持ち続けてきました。その作品、歌、コーラス、演奏が明らかにするのは、実は大衆の一歩先ではなく、半歩先である歩みに留めてきた絶妙のセンス、バランス感覚にあったのではないかと思うことがあります。

世代、時代を超えて、なお、親しまれているビートルズの普遍性、なによりもの魅力は、そんなところにあるのではないでしょうか。

1980年12月8日、ジョン・レノンは凶弾に倒れ、そして、2000年11月29日、ジョージ・ハリスンは肺がんのためにこの世を去りました。しかし、ビートルズが残した偉大な音楽資産は今も伝説としてではなく。親しまれ続けています。

さて、最後にもう一曲何かを聞いていただきたい。そんなことで選んだのがこの曲です。
ジョンが個人的に好きだといっていた曲です。「アクロス・ザ・ユニヴァース(Across The Universe)」をお聞きください。
アクロス・ザ・ユニヴァース(Across The Universe)



2011年の2月20日に1回目を掲載した。3年半にわたり,細切れに掲載を始めた。ビートルズの魅力は,それぞれ人によって違うのだろう。
その曲を演奏している人。分析している人。詩が大好きな人。生き様が魅力だという人。このアルバムが一番だなんて,やりだすと大変だろう。
私は,とにかく4人の音楽だと思う。4人のだれが作り,歌っても4人の音楽だと思う。
それにしても1962年にデビューして,もう半世紀を超えた。小学校の時に,東芝のステレオの宣伝で,映画「LET IT BE」のシーンを見て,虜になった。これほど長く,人の心を放さず,虜にする魅力は何か。50の半ばのおじさんが,まだ,毎朝,味噌汁を作りながら台所で聞くのはなぜか。


ビートルズのすべて 13 ビートルズの遺産 ビートルズが残したもの(8)

2014-10-05 | ビートルズ
後年になってビートルズのメンバーは、ビートルズ時代を振り返り、次のように語っています。

ポール「ビートルズをすごく長い間、やってきたような気がするけど現実にはたった10年だった。しかし、あの10年の間に20年分ぐらいが詰まっている。いろんな曲、いろんなスタイルの口ひげ、あごひげ、ひげなし、カルダンのジャケット、いろいろあったよ。長い、ほんとうに長い間に思えた。でも、とても楽しかった」

そして、ジョン。「世間に知られるようになるずっと前から僕らはずっと一緒にいた。64年に始まったことじゃないんだ。64年当時、僕は24歳だったけど、ポールは15のときからいっしょにやってきたし、ジョージはその1年後だ。それだけ長い年月をいっしょに過ごしてきた。きたならしい部屋から最高の部屋まで、信じられないような状況を潜り抜けてきたんだ。4人の人間が何年も何年も一緒に過ごすというのは大変なことだ。それを僕らはやった。ありとあらゆる罵詈雑言を言い合った。殴りあいもした。恥さらしなまねもいろいろやらかした。でも、僕らは自分たちの本質というものをわかっていたんだ。今でもそうだ。僕らは10年以上もいっしょに、つらい時期を潜り抜けてきたんだ」


ジョージ。「ちょうど学校みたいなものだった。僕は、ダブディルに行き、それから、リヴァプール・インスティテュートに行き、それからビートルズ大学に通って卒業した。人生にはまだ、これから先がある」


そして、リンゴ。「僕ら4人が一緒にいると魔法のような感覚があった。テレパシーだよ。スタジオでやっているとなんていうか、僕らは一つなんだよ。全員の心臓が一緒に動いてる。だけど、俺はいプレーをしているじゃないかと意識すると、まるっきしだめになっちゃうんだ」。



以上のような言葉がなかなか興味深いと思います。

ビートルズのすべて 13 ビートルズの遺産 ビートルズが残したもの(7)

2014-09-07 | ビートルズ
そして、ポール。ソロデビュー作の『マッカートニー(McCartney)』は、手作り的なホームメード感覚による作品でしたが、素朴でいささか荒削りであったことから妻のリンダを含むウイングスを結成し、ルーツミュージックへの回帰の姿勢を示したワイルドライフが評判を得ましたが、ソロアーチストとしての評価を得るようになったのは、ポールならではのポップセンスが発揮されたロックナンバー、特にバラードの「マイ・ラブ(My Love)のヒットを生んでからの頃ではないでしょうか。そして、「ジェット(Jet)」、「バンド・オン・ザ・ラン(Band on the Run)」のヒットで、ビートルズ時代と並ぶ評価を得ることになります。
ではここで、「バンド・オン・ザ・ラン(Band on the Run)」をお聞きください。
バンド・オン・ザ・ラン(Band on the Run)

ビートルズのすべて 13 ビートルズの遺産 ビートルズが残したもの(6)

2014-08-02 | ビートルズ
そして、リンゴはスタンダードナンバーを主体としたアルバム『センチメンタル・ジャーニー(Sentimental Journey)』に続いてカントリーミュージックに取り組んだ『カントリー・アルバム(Beaucoups of Blues)』を発表します。さらには、リチャード・ペリーを制作に迎え、ポップボーカリストとしての魅力を発揮し始めます。ユーモラスであると同時にセンチメンタルな個性を表現する歌手として評価を得ていくわけですが、同時にコミカルなキャラクターを打ち出した俳優としての活動も見逃せません。

ビートルズのすべて 13 ビートルズの遺産 ビートルズが残したもの(5)

2014-07-06 | ビートルズ
そして、ジョン、ポールに続く第3の存在だったジョージは、ボーカリスト、ソングライターであるだけでなく、ミュージッククリエイター、プロジューサーとしての手腕を発揮しはじめます。

洗練されたポップス作品を手掛けると同時にブルースなどのルーツ音楽、さらにインド音楽も交え、グローバルな視点にたった作品を生み出し、独自の音楽展開を見せていきます。そして、プロジューサーとしてはラビ・シャンカールの依頼により、ボブ・ディランなどをゲストに向かえ、バングラディシュ・コンサートを応援したことでも話題になりました。さらにジョージの才能の豊かさ、可能性を明らかにしたのが、ソロデビュー作の『オール・シングス・マスト・パス(All Things Must Pass)』でした。では、アルバム『オール・シングス・マスト・パス(All Things Must Pass)』から、ジョージの存在をより印象づける作品となった「マイ・スウィート・ロード(My Sweet Lord)」をお聞きください。
マイ・スウィート・ロード(My Sweet Lord)

ビートルズのすべて 13 ビートルズの遺産 ビートルズが残したもの(4)

2014-06-01 | ビートルズ
さて、ビートルズの解散後、メンバーの4人はそれぞれに単独で活動を続けることになります。

ジョンはヨーコとともにプラステック・オノ・バンドとして、活動を続け、ビートルズ時代には制限のあった平和運動など社会的な活動に積極的に関わっていきます。同時に内面的な感情を直接的に表現し、メッセージ力の濃い、ときに過激な表現による歌詞を手掛け、音楽的にはシンプルでプリミティブな作品、演奏を展開し、評価を得てきます。ソロデビュー作の『「ジョンの魂(John Lennon)』での「マザー(母)(Mother)」、そして「労働階級の英雄(Working Class Hero)」、さらに2枚目のタイトル曲である「イマジン(Imagine)」は、その代表的な作品でした。では、ジョンのソロアルバムから「労働階級の英雄(Working Class Hero)」をお聞きください。
労働階級の英雄(Working Class Hero)

ビートルズのすべて 13 ビートルズの遺産 ビートルズが残したもの(3)

2014-05-05 | ビートルズ
ビートルズ解散の理由はヨーコやリンダにあり、あるいはマネジャーのアライ・クラインにありと、さまざまに報じられましたが、結局のところは、ビートルズの4人が抱えていた問題こそが、その最大の要因だったといえるのではないでしょうか。

かつでジョンは「ヘルプ!(Help!)」と心の叫びを明らかにしたことがあります。自己の存在の喪失や乖離、人気・評価を得ていくとともに膨れ上がっていくビートルズの存在、その抱える内実と現実とのギャップ、そしてプレッシャー。ビートルズの成長、それとともにビートルズの一員であるメンバーそれぞれが成長を遂げながら、グループの一員としては、自己のすべてを表現することが難しくなってきたこと。一個の存在であるよりもグループの一員として強いられる制限などへの不満。ビートルズ後期のメンバーからの発言から伺えるものは、ビートルズという存在と1個の個人としての存在の距離、隔たりです。

ポールは解散に当たって「僕がビートルズを辞めたんじゃなくて、ビートルズがビートルズであることを辞めたんだ」とも語っています。

ビートルズのすべて 13 ビートルズの遺産 ビートルズが残したもの(2)

2014-05-04 | ビートルズ
70年代に入って1月、改めて行われたジョージの「アイ・ミー・マイン(I Me Mine)」のレコーディングと「レット・イット・ビー(Let It Be)」のダビングが、ビートルズの最後のレコーディングとなりました。それも4人全員が顔を揃えてのことではなかったのです。

前後して、ポールはソロアルバムのレコーディングを開始。また、ジョン、ジョージ、リンゴの3人の了解を得て、フィル・スペクターが『レット・イット・ビー(Let It Be)』の制作を開始。ポールにはフィルが制作することが知らされていませんでした。そして、前年69年の12月からレコーディングを開始していたリンゴのソロデビュー作の『センチメンタル・ジャーニー』 - Sentimental Journeyが発表されます。さらに『レット・イット・ビー(Let It Be)』の発売が予定されていたところ、それはポールのソロ作の発行日と重なっていました。そうしたことから、リンゴがポールを訪ねて調整を依頼したものの、ポールは断固としてそれを拒否するといったこともあったわけです。

アルバム『レット・イット・ビー(Let It Be)』の発売と前後して、映画『レット・イット・ビー(Let It Be)』も公開されます。発案者であるポールは出来上がった作品を見て、「僕が撮りたい映画じゃなく、ビートルズの分裂映画になっちゃったんだ。そのほうが話としては面白いかも。悲しい物語だけれど、どうしようもないよ。バンドというものがどのようにして分裂していくかを見せるようになったんだもの。本当に解散することになるとは、その渦中にいるときには気がつかなかったんだけれど」と語っています。

ジョンも「撮影は地獄だった。映画が公開されると、ヨーコが陰気だっていろんな人から不満が出た。だけど、ビートルズのどんな好きなファンだってあの悲惨な6週間を耐え忍ぶのは無理だよ。この世で一番悲惨なセッションだった」と語っています。
そうした言葉からのも明らかのように映画『レット・イット・ビー(Let It Be)』は、ビートルズ崩壊の内実を赤裸々に描き出した作品でした。

ビートルズのすべて 13 ビートルズの遺産 ビートルズが残したもの(1)

2014-05-03 | ビートルズ
いよいよ最終回の第13回です。
「ビートルズの遺産 ビートルズが残したもの」です。

解散にまつわるエピソード、解散後のビートルズ、そして、ビートルズが残してきたものについて触れていきたいと思います。

1970年4月10日、ポールは、初のソロ作「マッカートニー」を発表するにあたって、アップルのインタビューを添えて、ディスクジョッキーなどに送ります。その中にあった「ビートルズは事実上、解散したといえるのでしょうか」という質問に対し、ポールは「そうだね、僕らはもう、一緒に演奏はしないだろうね」と回答していました。ポールのその発言により、ビートルズの解散が大々的に報じられ、そのニュースは世界を駆け巡ることになります。それよりも先、前年の69年の12月、ある音楽誌におけるインタビューでジョンは、すでにビートルズの解散の危機をほのめかすような回答をしていたこともあります。

さらにジョンは愛盤『アビイ・ロード』の完成直後、ビートルズとマネージャのアライ・クラインがレコード会社と契約更改の会談を持ったとき、「僕はビートルズを辞める」と宣言したことがあります。ポールはその言葉に見る見る青ざめ、「何がなにやんだか、わけがわからなくなった」とそのときの様子を振り返って語っています。もっともジョンのその宣言は、契約更改に差し支えるという判断から、アランから口止めされ公にはなりませんでした。
最もジョンは、トロント・ピース・フェスティバルに参加した際、同行したメンバーにビートルズからの脱退を告げるなど、そうしたことをきっかけに、ビートルズ解散の気配はメディアを通じで徐々に伝えられるようになっていました。

ビートルズのすべて 12 ビートルズの音楽を集大成(6)

2014-04-29 | ビートルズ
さて、この『アビイ・ロード』はビートルズの作品の中でも歌、コーラス、それに楽器の音の際立ちが目立っています。それに音のセパレーション、分離も印象的です。明快な響きとともに穏やかで丸みを帯びた音の心地よさも見逃せません。基本的にはビートルズのメンバーのアンサンブルを中心にして、スタジオミュージシャンの起用もなども最小限度に応じたものになるなど、『サージェント・ペパーズ』の再現を狙いながら、それぞれ対照的な演奏、サウンド展開になっています。
さらにシンセサイザーが効果的に使われているのも特徴として挙げられるでしょう。今にしてみれば、懐かしい音のように聞こえるシンセサイザーですが、当時としては斬新で画期的なものでした。さらにクリアなサウンドは録音機材の変化がもたらした結果ではないでしょうか。この『アビイ・ロード』に収録された作品の多くは、メンバー4人が一同に会してのものはほとんどなかったといいます。もっともメンバーのうち、ジョン、ポール、ジョージの息の合ったコーラス、さらにギターバトルがフューチュァーされた作品があります。『ホワイト・アルバム(White Album)』とは対照的にビートルズというバンドの一体感を物語るものでした。
ジョンの書いた「ビコーズ(Because)」におけるジョン、ポール、ジョージの3人によるコーラスのハーモニーがそれです。

ではそのコーラスをお聞きください。

ベートーベンのピアノソナタの月光をヒントにしてジョンが書いたという作。このハーモニーのすばらしさですね。『ホワイト・アルバム(White Album)』での緊張とは対照的にな、アンサンブルというか和に打ちのめされた覚えがあります。
さて、コーラスばかりではありません。『アビイ・ロード』のB面を締めくくる「ジ・エンド(The End)」において、ビートルズはロックバントしての本領を発揮して見せます。それは、ポール、ジョージ、ジョンの3人によるギターの競演、ギターバトルです。加えて、リンゴが珍しくソロプレーを聞かせています。そして、印象的なのはその歌詞です。ポールが書いたものですが、「受ける愛は与える愛と同じになる」。それでは、「ジ・エンド(The End)」の競演をお聞きください。

今回紹介された曲。

「アイ・ウォント・ユー(I Want You (She's So Heavy))」
「サムシング(Something)」
「ビコーズ(Because)」
「ジ・エンド(The End)」