前回に引き続き「他力」のエッセンスを紹介します。
委任社会に警鐘。税金、教育、資産運用、健康。さまざまなことを人任せにし、自分の持っている能力を鈍麻させてきた。
ドーム球場やハンバーガー。自然の光や生き物たちが見えてこない。自然の大切さ、生命の重さ、罪悪感を感じられなくなっている。
戦後50年は加速の時代。人間はすべて死のキャリアだ。死はみじめな物ではなく、豊かで艶やかで喜びに満ちたものととらえよう。これからは人生、減速と制御の時代。いかに死にたどり着くかだ。
戦後50年、慶ざし成長を遂げた。その中で損か得かの価値観がはびこった。涙とか感動とかのエモーショナルな部分を切り捨てていった。
戦後50年、当てにできるものはどこにもない。今、暗黒の中にいる。だから、自分を照らす、世間を照らす光が欲しい。
戦争について。我々は愚かだった。国家や自分たちを安易に信用しない。
3つの真理。自分で生まれ方を決めることができない。日々、死に向かって進んで行く。人生には期限がある。
父母兄弟の死に遭遇した。人生は大きな流れに任せたいと言い聞かせてきた。寝る前に必ず行うこと。明日の朝、目覚めなかったとして、それでよいのかと問いかける。信条は「わがはからいにあらず」だ。大陸から帰ってきた。帰ってきた人間は非常にエゴが強く、他人を押しのけてでも生きて行こうとする生命力と強の強い人間だ。善良な優しい人間は黙って倒れていった。
お葬式になく信者を前に、光に包まれて浄土に迎えられたので悲しむべきではないという坊主がいる。親鸞は「酒は亡憂の名あり」といったと口伝鈔にある。弔いのあり方と指南した。亡き人を思い、悲しんでいる人には、憂いを忘れるお酒を勧めて、個人の思い出話でもして酔いが回り冗談の一つでも出るようになったら引き上げて来い。
親鸞は29歳まで厳しい修業をしたが、邪心や欲望を抑えることができなかった。自分の力で解脱できないと悟る。人間の命は有限であると諦め、生きているこの瞬間を十分に味わうというしなやかな心が危機に際して大きな力になる。
大乗仏教は菩薩行。他人を救わなければ自分も救われない。菩薩は、この世で一人でも救い洩らしたら自分は仏にならないと決意をする。これが阿弥陀如来の本願。親鸞は、菩薩は阿弥陀如来になったのだから、この世に吸い洩らされる人は一人もいないと説く。オウム真理教はエリート主義で、無差別大量殺人をした。ナチスは差別殺人。真宗の救済は無差別救済。
歎異抄は異端を嘆くのではない。異端がいることで自分たちの考えが正しいことが証明される。なんという不思議な矛盾であろうか。
人間の一生は苦しみの連続。生きていること自体が地球環境を汚しているし、自分より弱い生物を犠牲にして命を維持している。善と悪は背中合わせで一体として存在している。
法然親鸞蓮如には、人間の暗い定めることにより逆に自分を照らしている光を知ることができるという考えがある。
蓮如の書いた白骨の御文章。文体は平凡だが、心が自然に突き動かされてしまう。或る状況の下で耳から聞かなければならない文章だ。たくさんの人と斉唱したい。親鸞は西欧的な知性の強靭さを持ち、蓮如はアジア的な肉厚な情熱を感じる。
人間の心の傷をいやす言葉は二つある。励ましと慰めだ。戦中戦後、ずっとがんばれと言われてきた。老いを否定できるか、死を否定できるか。今、大切なのは、励ましではなく、慰めであり、‹悲›なのだ。
巻末に五木は、「完全に自力を捨てることなど不可能だ。しかし、他力こそ自力の母であると感じる時に、生きる不安や悩みや恐怖になんとか耐えて踏みとどまることができそうな気がする」と書いている。
発売から20年。今なお、色あせないのは幸か不幸か。官僚の不正や虚偽、製品偽装、いじめによる子供や過労による大人の自殺、福祉施設の殺害事件、医学部入試の不公平問題など次々と起こる修羅場。
委任社会に警鐘。税金、教育、資産運用、健康。さまざまなことを人任せにし、自分の持っている能力を鈍麻させてきた。
ドーム球場やハンバーガー。自然の光や生き物たちが見えてこない。自然の大切さ、生命の重さ、罪悪感を感じられなくなっている。
戦後50年は加速の時代。人間はすべて死のキャリアだ。死はみじめな物ではなく、豊かで艶やかで喜びに満ちたものととらえよう。これからは人生、減速と制御の時代。いかに死にたどり着くかだ。
戦後50年、慶ざし成長を遂げた。その中で損か得かの価値観がはびこった。涙とか感動とかのエモーショナルな部分を切り捨てていった。
戦後50年、当てにできるものはどこにもない。今、暗黒の中にいる。だから、自分を照らす、世間を照らす光が欲しい。
戦争について。我々は愚かだった。国家や自分たちを安易に信用しない。
3つの真理。自分で生まれ方を決めることができない。日々、死に向かって進んで行く。人生には期限がある。
父母兄弟の死に遭遇した。人生は大きな流れに任せたいと言い聞かせてきた。寝る前に必ず行うこと。明日の朝、目覚めなかったとして、それでよいのかと問いかける。信条は「わがはからいにあらず」だ。大陸から帰ってきた。帰ってきた人間は非常にエゴが強く、他人を押しのけてでも生きて行こうとする生命力と強の強い人間だ。善良な優しい人間は黙って倒れていった。
お葬式になく信者を前に、光に包まれて浄土に迎えられたので悲しむべきではないという坊主がいる。親鸞は「酒は亡憂の名あり」といったと口伝鈔にある。弔いのあり方と指南した。亡き人を思い、悲しんでいる人には、憂いを忘れるお酒を勧めて、個人の思い出話でもして酔いが回り冗談の一つでも出るようになったら引き上げて来い。
親鸞は29歳まで厳しい修業をしたが、邪心や欲望を抑えることができなかった。自分の力で解脱できないと悟る。人間の命は有限であると諦め、生きているこの瞬間を十分に味わうというしなやかな心が危機に際して大きな力になる。
大乗仏教は菩薩行。他人を救わなければ自分も救われない。菩薩は、この世で一人でも救い洩らしたら自分は仏にならないと決意をする。これが阿弥陀如来の本願。親鸞は、菩薩は阿弥陀如来になったのだから、この世に吸い洩らされる人は一人もいないと説く。オウム真理教はエリート主義で、無差別大量殺人をした。ナチスは差別殺人。真宗の救済は無差別救済。
歎異抄は異端を嘆くのではない。異端がいることで自分たちの考えが正しいことが証明される。なんという不思議な矛盾であろうか。
人間の一生は苦しみの連続。生きていること自体が地球環境を汚しているし、自分より弱い生物を犠牲にして命を維持している。善と悪は背中合わせで一体として存在している。
法然親鸞蓮如には、人間の暗い定めることにより逆に自分を照らしている光を知ることができるという考えがある。
蓮如の書いた白骨の御文章。文体は平凡だが、心が自然に突き動かされてしまう。或る状況の下で耳から聞かなければならない文章だ。たくさんの人と斉唱したい。親鸞は西欧的な知性の強靭さを持ち、蓮如はアジア的な肉厚な情熱を感じる。
人間の心の傷をいやす言葉は二つある。励ましと慰めだ。戦中戦後、ずっとがんばれと言われてきた。老いを否定できるか、死を否定できるか。今、大切なのは、励ましではなく、慰めであり、‹悲›なのだ。
巻末に五木は、「完全に自力を捨てることなど不可能だ。しかし、他力こそ自力の母であると感じる時に、生きる不安や悩みや恐怖になんとか耐えて踏みとどまることができそうな気がする」と書いている。
発売から20年。今なお、色あせないのは幸か不幸か。官僚の不正や虚偽、製品偽装、いじめによる子供や過労による大人の自殺、福祉施設の殺害事件、医学部入試の不公平問題など次々と起こる修羅場。