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パンダ イン・マイ・ライフ

ようこそ panda in my lifeの部屋へ。
音楽と本、そしてちょっとグルメなナチュラルエッセイ

『つなみ』大晦日に。

2011-12-31 | book
やはり今年の大晦日は、東北大震災を語らずにはいられない。パール・バックの『つなみ』(The Big Wave )を紹介する。

パール・バックはアメリカの女性小説家。1892(明治25年)~1973(昭和48年)。宣教師の両親と中国で育ち、1917年(大正6年)に帰国した。有名な『大地』は、1931年(昭和6年)に発表した。1938年(昭和13年)にノーベル文学賞受賞。バックの生きた時代を見てみよう。1894年(明治27年)に日清戦争、1904年(明治37年)に日露戦争、1911年(明治44年)辛亥革命、1931年(昭和6年)に満州事変、1941年(昭和16年)太平洋戦争という動乱の時代であった。

『つなみ』は、戦後間もない1947年(昭和22年)に出版された。日本の漁村が舞台となり、つなみによって家族を失い、一人ぼっちになった男の子ジヤの成長を描く児童文学。アメリカは長く読まれ続けられているという。1988年(昭和63年)に邦訳され、2005年に復刻された。図書館で借りた。

バックは1927年(昭和2年)に知的障害のある6歳の娘を連れて長崎県の雲仙に数ヶ月間滞在したという。その5年前にこの雲仙や島原地方を津波が襲っていた。バックはわが子の障害に悩んでいたという。この本は、日本での暮らしから20年経って発表された。1960年(昭和35年)には日本を舞台に映画化もされた。さまざまな思いがバックに去来していたのかと思うとさらに興味深い作品となる。

この作品には、とても戦後、海外の作家が書いたと思えない親近感がある。日本人の精神がたっぷりと詰まっている作品なのだ。死生観、自然観、労働感など、今でもDNAとして共感できるものだ。ジヤの子供から大人への成長は、戦後の日本が悲しみ・苦しみを乗り越え、自立、自活に向かう姿にパール・バックがエールを送ったものなのだろう。

「恐れずにありのままを受け入れなければいかん、人間はいつかは死ぬ。死を怖がるな」「生は死よりも強し」「いつまでも泣けるものじゃない」。ジヤと暮らす家族の父親の力強い言葉が耳に残る。

来年も、来年こそよい年に。


おもちをせんべいに

2011-12-30 | food
我が家は餅を食べない。知人に聞くと、どの家も結構、食べるらしい。それも好きな家は、1年中だというからすごい。今は、電気の餅つき機で、いつでもできるから、手軽な存在なのだろう。
その我が家で、もち米の取り扱いが問題になった。「他人に差し上げる」から「捨てる」までいろんな話が出た。そこで、餅を薄く切り、乾燥させて、せんべいにしてはどうかということになった。久々に倉庫の奥から餅つき機を出して、早速、作ってみた。
青海苔、乾燥えび、黒ゴマと3種類をつくり、一晩置いて、薄く切り、魚の一夜干しをつくる乾燥ネットに入れて、西風にさらす。

年末恒例の、親戚や知人に贈るそばとかまぼこに添えてみよう。

おせちもいいいけど「鶏のふわふわ団子鍋」

2011-12-29 | food
鶏ミンチとはんぺんでソフトな団子をあつあつ鍋で召し上がれ。朝日新聞の12月25日おかず練習長から。

鶏にはももとむねがあるが、ももは色がピンクで脂肪が混ざっている。むねは白っぽく脂肪がない。うまみの強いのはもも肉、さっぱりはむね肉。

だんこん、にんじんはピーラーで薄くスライスするので、ぐつぐつ煮なくてもよい。足りなければ、加えてすぐに食べれます。
つゆは、酒・みりん、薄口しょうゆが同じ割合。しっかりとした甘いだしが、最後に入れるそばに合います。
さんしょうや一味唐辛子とも合い、絶品。寒い冬に芯からあったまります。お手軽で安価。「おせちもいいけどカレーもね」という正月CMが昔あったが、鍋もいいものですよ。

材料は4人前です。

鶏ひき肉(もも肉)200㌘
はんぺん1枚(100㌘)
玉ねぎ2分の1個(130㌘)
サラダ油小さじ1
A(マヨネーズ大さじ1、片栗粉大さじ2、みりん大さじ2、塩小さじ2分の1、おろしショウガ小さじ2)
大根2分の1本(250㌘)
金時ニンジン2分の1本
長ネギ1本
水菜1束
ゆでそば4玉
B(だし汁6カップ、酒・みりん・薄口しょうゆ各120cc)
粉サンショウ、一味唐辛子、長ネギ、ユズ

①だいこん、ニンジンはピーラーで縦に薄く細長く削る。長ネギは斜め薄切りに水菜ざく切りにする。
②タマネギはみじん切りにする。フライパンにサラダ油で中火で温め、しんなりするまで色をつけずに炒める。パットにあけて冷ます。
③ボウルに鶏ひき肉と細かくちぎったはんぺんを入れ、指先ではんぺんをつぶすようによく混ぜる。
Aを加えてねばりが出るまで手で混ぜ、最後にタマネギを加えてへらで混ぜ合わせる。
④食卓に出す鍋にBを合わせて火をかけ、沸いてきたら、肉だねをスプーンで丸くすくっては、鍋に落として入れる。
最後印入れた団子が浮いてから1~2分、団子の上下を返しながら火を通す。
食卓では野菜を煮ながら食べる。好みでサンショウ、一味唐辛子をふる。
最後は煮汁を適量残し、そばを入れて温める。好みで刻みネギやユズの皮を添える。
計30分

お試しあれ。


阿久悠『無冠の父』

2011-12-25 | book
父の記憶がどのように残っているのか。作詞家、阿久悠は、2007年、平成19年に70歳で亡くなった。「津軽海峡・冬景色」「北の宿から」「また逢う日まで」など、昭和の歌謡史に燦然と輝く。執筆も手がけ、作詞はその延長にある。その遺稿が『無冠の父』。2011年10月刊行。

戦中から昭和30年頃まで淡路島の駐在所で暮らした阿久は、旅行でフランスにいて父の訃報にあう。戦中、敗戦と警察官として暮らす父との思い出が語られる。

子は親と、就学や就職で離れ離れとなり、父との思い出は小さい頃が主であろう。成人となり、仮に同居していても、そんなに面と向かって話をする機会はなかなかない。

私の父は平成16年〈2004〉に亡くなった。子供は私のことをどう思い出すのだろうか。阿久は、訃報を聞いたとき、父の声がすぐに思い出せなかったという。過ぎ去った日々は、まさに忘却の彼方。これからも、24時間親や子と過ごすことはない。だからこそ、そのとき、そのときを、ありがたく生きることしかないと思わせる。

笑い三年、泣き三月

2011-12-24 | book
2010年下半期の直木賞、女流作家の木内昇(のぼり)の『笑い三年、泣き三月』を読んだ。2011年9月刊。2010年3月から2011年5月まで月刊文芸誌に連載。
木内は、1967年生まれ。40歳台の彼女は、編集者、ライターとして2004年に作家デビューを果たす。

この「笑い三年、泣き三月」は終戦直後の日本、東京の上野(ノガミ)が舞台。浮浪児の武雄(坊ちゃん)、上京し芸人を目指す45歳の善造、ショーガールのふう子、映画人の光秀、カメラマンの大森など、場末の上野の演芸場「ミリオン座」で暮らす人々の泣き笑い人生。

この時代を共有していない木内がまるで、この時代のこの場所にいたかのような空気を繰り出すすごさ。巻末の参考引用文献の量は、半端ではない。この構成力と表現力、個性あふれる登場人物のキャラを生み出す力に脱帽。。皆、敗戦というゼロからのスタートランナーだ。残されたものたちが、生きるということに常に前向きに考えていた時代を、木内は今に訴える。

この人々の共同生活はいつまでも続かないし、バラ色の結末でもない。しかし、この明るさを、生るということを忘れてはいけないのではないか。そう思わせる1冊。しみじみとした読後感は久々だ。

このタイトルは、義太夫のことわざから。笑い方の稽古が、泣き方の稽古より難しいことを言ったもの。

ビートルズのすべて 7 ライブ活動の休止(5)

2011-12-23 | ビートルズ
1966年、アルバム『リボルバー』の発表前の6月29日に、ビートルズは日本に来日した。
翌30日から5回にわたり、日本公演が行われた。5月の3万人分のチケットに対し、21万人が応募した。その中には、新曲も含まれていた。7月1日昼の公演がテレビで放映された。驚いたのは4人のアンサンブルの見事さ、4人であるにもかかわらず演奏サウンドの豊かさだった。

ジョージのマイクがゆれていて、ジョージが歌いにくそうだったということ。ジョンがギターを弾き、ポールとジョージが一つのマイクを囲んでコーラスを歌うという、映画で見たビートルズをテレビで見たということに興奮を覚えた。

日本武道館でのライブから「ロック・アンド・ロール・ミュージック - Rock and Roll Music 」(Live At Nippon Budokan Hall)

日本は、この当時、エレキブームの最中にあり、この後、グループサウンズブームを迎えることになる。
8月にアメリカ公演を行うが、ジョンが年頭に行ったキリスト教発言に対し、アメリカでビートルズ排斥運動が起きる。このアメリカ公演を最後にビートルズは。ライブ活動を休止した。
「4年もの間、キャーキャー騒ぐ、ファンの間を逃げ回ってきたんだ。長い休みは1回だけ。だれも一つの持代が終わったと悔やんではいなかった。休みが必要だったんだ」とジョージ。

今回、紹介された曲は、「タックスマン(Taxman)」「ラヴ・ユー・トゥ(Love You To)」「エリナー・リグビー(Eleanor Rigby」「イエロー・サブマリン(Yellow Submarine)」「ロック・アンド・ロール・ミュージック - Rock and Roll Music 」の5曲。


内と外

2011-12-18 | life
冬将軍の到来が天気予報で伝えられるようになった。そんな折、庭では山茶花が咲き、玄関では、ジャコバサボテンがきれいなピンク色の花を咲かせた。
来週の週末も天気は雪マーク。先週土曜日にタイヤ交換をし、月曜日に背中が痛くなった。年をとると寒さ、作業が骨身にしみる。そんな中、植物の生きる力は鮮やかだ。しばらくは、寒い日が続きそうだ。


ビートルズのすべて 7 ライブ活動の休止(4)

2011-12-18 | ビートルズ
一方のジョンは自らの体験を下にした作品を手がけている。この時期、ビートルズのメンバーは、相次いでドラックを体験する。その幻覚的な体験を作品演奏サウンドに具現化しようとする。この多くはドラック体験を反映したものが多い。

「シー・セッド・シー・セッド - She Said She Said」は、まさにこの体験を明らかにしたもの。
「アイム・オンリー・スリーピング - I'm Only Sleeping」では、現代社会への批判も織り込まれていた。
大きな話題になったのは、アルバムを締めくくる「トゥモロー・ネヴァー・ノウズ - Tomorrow Never Knows」だ。
チベットに関わる難解な歌詞以上に、テープレコーダを駆使したテープスピード操作、逆回転、ループテクニックなど、映像で使われていたテクニックにより、見出された斬新なサウンドが話題になった。

ベース、ドラムスは、最新のアメリカのソウルミュージックから、迫力、リアル、ダイナミックな音の再現を、スタジオミュージシャンに要求していった。つまり、ビートルズのアイデアをスタッフ一丸となって実現していった。
この代表作が、リンゴがボーカルをとった、「イエロー・サブマリン(Yellow Submarine)」だ。子供たちに聞かせる話として、ポールが中心となりジョンが手伝った。


ビートルズのすべて 7 ライブ活動の休止(3)

2011-12-11 | ビートルズ
その後、メンバーもインドの宗教・文化に傾倒していくようになる。

ポールの「ゴット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ - Got To Get You Into My Life」も、アメリカのソウルミュージックへの傾倒を物語るものであり、ビートルズ作品としてはじめてブラスセクションを起用したことで話題になった。アメリカ南部のメンフィスホーンを意識したものであるが、より高質でメタリックな音質、スタイルであった。
何よりも話題を呼んだのは「エリナー・リグビー(Eleanor Rigby」であった。結婚式で飛び散るお米を拾うエリナ・リグビー、誰一人として耳を傾けない説教の文句をしたため続けるマッケンジー神父。世の中から忘れ去られた人々の孤独、信者の様をリアル描いた作品で、ストリングス演奏の寂寥感が、作品の心情を描き出している。

ビートルズのすべて 7 ライブ活動の休止(2)

2011-12-04 | ビートルズ
アルバム『リボルバー』は、前作『ラバー・ソウル』同様、収録されている作品すべて、ビートルズのメンバーによるオリジナルである。レノン-マッカートニーのコンビが11作品。
その形成過程には、ジョンとポールの共同、主と従、単独さまざまな形があるが、リードボーカルをとっているのが、主に作品をリードしている。

今回はジョージが3曲。ソングライターとしての評価、存在を注目させることになる。
それが、アルバムの幕開けを飾る「タックスマン(Taxman)」だ。いくら稼いでも、税金で持っていかれるという皮肉の聞いた内容だ。前作、ラバーソウル以来のアメリカのソウルミュージックへの傾倒とハードロックギターが聞きもの。
また、インド音楽への傾倒し、インドの楽器シタールを起用使い、インド系ミュージシャンを向かえ作られた「ラヴ・ユー・トゥ(Love You To)」である。前作「ラバーソウル」のノルウェーの森(ノーウェジアン・ウッド)( Norwegian Wood) 」でシタール演奏披露したジョージであったが。今回はよりインド音楽への傾倒が深くなっていった。