今は、8月に入り、立秋過ぎに、台風が目白押し。気温も低く、ある意味、過ごしやすい日々だったが、9月に入ると、結構暑い日が続いている。
布袋草が咲くのも、昨年は8月26日、一昨年は9月5日だったが、今年は咲かない。それでも1か月遅れの10月5日に一株咲いた。ホッとする。
布袋草が咲くのも、昨年は8月26日、一昨年は9月5日だったが、今年は咲かない。それでも1か月遅れの10月5日に一株咲いた。ホッとする。
会津若松城。別名鶴ヶ城。戊辰戦争の悲劇。白虎隊。福島県会津若松市の中心部の平山城だ。
プラモは童友社のジョイジョイコレクションの「赤瓦鶴ヶ城」。

名城百選ではベスト9位にランク。南上空からの空撮が美しい。

ハンドブック日本の名城では天守と走り長屋が。

プラモは童友社のジョイジョイコレクションの「赤瓦鶴ヶ城」。

名城百選ではベスト9位にランク。南上空からの空撮が美しい。

ハンドブック日本の名城では天守と走り長屋が。

犬山城。愛知県犬山市にある。木曽川に臨む40メートルの断崖の上に築かれた。天守は、姫路、松本、彦根に次ぐ国宝天守だ。(後に松江も)。プラモデルはフジミ模型。
美濃と尾張の国境にあるため、戦国期は重要視されてきた。小牧長久手の戦いでは戦略的要地となったと「日本名城百選」にある。南東から天守を望む写真。
名城百選にはこのような縄張り図が掲載されている。
「ハンドブック日本の城」では、空撮でその威容を見ることができる。
美濃と尾張の国境にあるため、戦国期は重要視されてきた。小牧長久手の戦いでは戦略的要地となったと「日本名城百選」にある。南東から天守を望む写真。
名城百選にはこのような縄張り図が掲載されている。
「ハンドブック日本の城」では、空撮でその威容を見ることができる。
名古屋城。ご存じ尾張徳川の居城。名古屋市中区にある平城。大阪の豊臣包囲網の一つだ。

「日本名城百選」では、ベスト4位に。空撮がみごと。

日本有数の巨大天守と小天守。先の大戦で焼失。昭和34年に外観復元された。「ハンドブック日本の城」から。

プラモは童友社のジョイジョイコレクション。童友社のホームページには、名城プラモデルの「初心者向け製作の基本」のサイトがあり、このキットで説明されている。現物にはない、大天守横のお堀の水面シールがご愛敬。


「日本名城百選」では、ベスト4位に。空撮がみごと。

日本有数の巨大天守と小天守。先の大戦で焼失。昭和34年に外観復元された。「ハンドブック日本の城」から。

プラモは童友社のジョイジョイコレクション。童友社のホームページには、名城プラモデルの「初心者向け製作の基本」のサイトがあり、このキットで説明されている。現物にはない、大天守横のお堀の水面シールがご愛敬。

布袋草が、今年も咲いてくれた。
暑い。とにかく暑い。
今年は梅雨は長く、線状降水帯という名前も覚えた。
とにかく、いつ、急激な雨が降るかわかならい。
インド洋の温暖化による海水温の上昇と偏西風によるものだということ。
まさにワールドワイドな時代。
5月17日日曜日に近くのDIYで購入した布袋草。
咲きました。 3株同時は初めてです。
暑い。とにかく暑い。
今年は梅雨は長く、線状降水帯という名前も覚えた。
とにかく、いつ、急激な雨が降るかわかならい。
インド洋の温暖化による海水温の上昇と偏西風によるものだということ。
まさにワールドワイドな時代。
5月17日日曜日に近くのDIYで購入した布袋草。
咲きました。 3株同時は初めてです。
彦根城は近江の井伊家18万石の居城。彦根市にある。関ヶ原の戦功で、井伊直正の子、直継が1603年に築城に着手する。天守は現存12天守の一つで国宝。琵琶湖に近い彦根山を活用。童友社のデラックス版だ。


「ハンドブック日本の城」は6ページを割く。古地図にアングルを合わせた空撮が興味を引く。

「日本名城百選」は、ベスト6に。この本は、プラモづくりに役立つ空撮がいい。4ページを割く。




「ハンドブック日本の城」は6ページを割く。古地図にアングルを合わせた空撮が興味を引く。

「日本名城百選」は、ベスト6に。この本は、プラモづくりに役立つ空撮がいい。4ページを割く。


童友社のプラモ。「徳川家康の兜・鎧・大袖付」だ。「南蛮鉢歯朶(シダ)の鎧」とある。

確かに、現在久能山東照宮に納められている甲冑が、重要文化財「伊予札黒糸威胴丸具足(歯朶具足)」といわれるものがある。兜の前に立てる前立(まえたて)が植物のシダの葉の形であることから「歯朶具足」とも呼ばれている。家康が天下分け目の決戦、関ヶ原の戦いと豊臣家を滅ぼした大坂の陣に携行し、見事勝利を収めたことから徳川家"吉祥の具足"として、大切にされてきた特別なものだといわれている。しかし、童友社のプラモはこれと異なる。義家、義経と同様の金型で兜、袖や胴、モモを覆う草摺とし、兜の前立てを歯朶の葉の形にしたものだ。

南北朝から室町期は、山城が多く築かれ、局地戦や城攻めが主となる。馬上での動きとは異なり、足の動きが自由で軽便な胴丸が採用される。そして、戦国時代になると、個人戦から集団戦へと移り、武器も特に槍が主要となり、さらに鉄砲の出番となる。小型化といった実用性重視の流れだ。

さらに江戸初期には鉄砲の進化により、鉄の地を厚くする改良が加えられる。江戸中期には、美術工芸品といった趣も出てくる。
童友社の甲冑シリーズで、織田信長や徳川家康、伊達正宗、直江兼続といったモデルは、兜は往時のものだが、胴や袖、モモを覆う草摺は平安鎌倉期の八幡太郎義家、義経などの型を使っているので、童友社ファンには不評だ。

その点、南北朝室町時代の春日大社所蔵国宝の「赤絲威竹に雀虎金物鎧」、そして兜の立物はいかがと思うが、安土桃山時代の東京国立博物館所蔵の「金小札色々威片肌脱二枚胴具足(伝加藤清正)」は、それなりに忠実に伝えており、さすが下町の技術の高さと言えよう。

確かに、現在久能山東照宮に納められている甲冑が、重要文化財「伊予札黒糸威胴丸具足(歯朶具足)」といわれるものがある。兜の前に立てる前立(まえたて)が植物のシダの葉の形であることから「歯朶具足」とも呼ばれている。家康が天下分け目の決戦、関ヶ原の戦いと豊臣家を滅ぼした大坂の陣に携行し、見事勝利を収めたことから徳川家"吉祥の具足"として、大切にされてきた特別なものだといわれている。しかし、童友社のプラモはこれと異なる。義家、義経と同様の金型で兜、袖や胴、モモを覆う草摺とし、兜の前立てを歯朶の葉の形にしたものだ。

南北朝から室町期は、山城が多く築かれ、局地戦や城攻めが主となる。馬上での動きとは異なり、足の動きが自由で軽便な胴丸が採用される。そして、戦国時代になると、個人戦から集団戦へと移り、武器も特に槍が主要となり、さらに鉄砲の出番となる。小型化といった実用性重視の流れだ。

さらに江戸初期には鉄砲の進化により、鉄の地を厚くする改良が加えられる。江戸中期には、美術工芸品といった趣も出てくる。
童友社の甲冑シリーズで、織田信長や徳川家康、伊達正宗、直江兼続といったモデルは、兜は往時のものだが、胴や袖、モモを覆う草摺は平安鎌倉期の八幡太郎義家、義経などの型を使っているので、童友社ファンには不評だ。

その点、南北朝室町時代の春日大社所蔵国宝の「赤絲威竹に雀虎金物鎧」、そして兜の立物はいかがと思うが、安土桃山時代の東京国立博物館所蔵の「金小札色々威片肌脱二枚胴具足(伝加藤清正)」は、それなりに忠実に伝えており、さすが下町の技術の高さと言えよう。