吉村昭の「プリズンの満月」は、平成7年(1995)6月発行である。
敗戦後にA・B・C級戦犯を収容していた巣鴨(東池袋)にあった、巣鴨プリズンを舞台にした小説。刑務官の鶴岡の目から見た施設の様子を通し、戦後の歴史の一ページを垣間見る。
20歳で刑務官になり、40年勤め上げ、60歳で定年を迎えた鶴岡は悠々自適の生活を妻、紀代子とともに日々送っていた。そこに一通の手紙が舞い込む、かつての上司が、建築現場の責任者に頼みたいと言ってきた。その現場とは、かつて鶴岡が勤務していた巣鴨プリズンの跡地に建築中の地上60階、地下3階の高層ビルであった。
刑務所・拘置所としての機能を持っていた施設は、敗戦後の昭和20年(1945)11月、GHQに接収される。
鶴岡は、朝鮮戦争の激化とともに巣鴨に日本人の刑務官を配置することになり、昭和25年に熊本の刑務所から配転される。巣鴨では戦犯が1,600名も収容され、60人が処刑されたという。戦勝国が敗戦国を裁くという特異な状態の中で、日本人が日本人を監視するという役目を担うことの苦痛と、管轄していた米兵との軋轢も。
昭和27年、9月に連合国と日本の間の平和条約が締結される背景とともに、昭和27年には運営が日本に移管される。その間、歌手や落語家など芸能や、大相撲の慰問や、後楽園球場でのプロ野球観戦なども行われていたという。
吉村はそのあとがきで、「時間の経過によって物事はよく見えてくるというが、この小説を執筆しながら私もその観を深くした。巣鴨プリズンが刑務所としての姿を急速に失っていったことに戦犯というものの問題を解く鍵があると思っている」と。
昭和33年(1958)に巣鴨プリズンはGHQから変換され、東京拘置所となった。昭和48年(1973)~昭和53年(1978)に建設された池袋サンシャインシティが今、その地に建つ。
敗戦後にA・B・C級戦犯を収容していた巣鴨(東池袋)にあった、巣鴨プリズンを舞台にした小説。刑務官の鶴岡の目から見た施設の様子を通し、戦後の歴史の一ページを垣間見る。
20歳で刑務官になり、40年勤め上げ、60歳で定年を迎えた鶴岡は悠々自適の生活を妻、紀代子とともに日々送っていた。そこに一通の手紙が舞い込む、かつての上司が、建築現場の責任者に頼みたいと言ってきた。その現場とは、かつて鶴岡が勤務していた巣鴨プリズンの跡地に建築中の地上60階、地下3階の高層ビルであった。
刑務所・拘置所としての機能を持っていた施設は、敗戦後の昭和20年(1945)11月、GHQに接収される。
鶴岡は、朝鮮戦争の激化とともに巣鴨に日本人の刑務官を配置することになり、昭和25年に熊本の刑務所から配転される。巣鴨では戦犯が1,600名も収容され、60人が処刑されたという。戦勝国が敗戦国を裁くという特異な状態の中で、日本人が日本人を監視するという役目を担うことの苦痛と、管轄していた米兵との軋轢も。
昭和27年、9月に連合国と日本の間の平和条約が締結される背景とともに、昭和27年には運営が日本に移管される。その間、歌手や落語家など芸能や、大相撲の慰問や、後楽園球場でのプロ野球観戦なども行われていたという。
吉村はそのあとがきで、「時間の経過によって物事はよく見えてくるというが、この小説を執筆しながら私もその観を深くした。巣鴨プリズンが刑務所としての姿を急速に失っていったことに戦犯というものの問題を解く鍵があると思っている」と。
昭和33年(1958)に巣鴨プリズンはGHQから変換され、東京拘置所となった。昭和48年(1973)~昭和53年(1978)に建設された池袋サンシャインシティが今、その地に建つ。