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パンダ イン・マイ・ライフ

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非情と熱情と 「長英逃亡」 吉村 昭 31

2009-03-07 | 吉村 昭
吉村には「逃亡物」というジャンルがあり、逃げるという行為をテーマにいくつかの作品がある。「遠い日の戦争」は先の大戦後の現代物であるが、江戸後期の作品がこの「長英逃亡」である。
高野長英(たかのちょうえい)文化元年5月5日(1804年6月12日) - 嘉永3年10月30日(1850年12月3日)は、江戸後期に活躍した医師・蘭学者である。
幕府が外国の脅威を感じ始めていた頃、いわゆる蛮社の獄(蘭学者への言論弾圧事件。幕府目付鳥居耀蔵が首謀者)で天保10年(1839)、36歳で入牢。5年間の入牢を経て、41歳で獄舎に火をつけ逃亡。以来、6年4ヶ月にも及ぶ逃亡の記が「長英逃亡」(昭和59年・1984)刊である。
共同体意識が強い時代に、江戸内に潜伏以来、群馬・新潟・岩手そして江戸、そして西へ。大阪、四国の宇和島、広島、そしてまた江戸へとさまざまな温情を受けながら逃げ伸びる。そこには危険や罪を犯してまでも知的財産である長英を生かそうという熱い信念を持つ人々がいた。
長英はその間、捕縛への恐怖と不安を抱えながら、日本の将来を憂慮し、西洋の兵書を翻訳し、世に送り続けた。しかし、江戸で捕まり死亡する。

吉村は、美談にせず、その凄惨ともいうべき、逃亡の日々をきちんと追い続ける。晩年に自ら顔にやけどを負わせながらも、生きることに執着する凄惨な長英の姿も浮かび上がらせる。

しかし、脱獄して、2ヶ月で鳥居が失脚し、西洋への関心が高まる。また、長英の力を頼みにしていた薩摩・島津斉彬も、長英の死後3ヵ月後に藩主になるなど、その情熱とはうらはらに数奇で過酷な運命が長英を襲う。
そして、死して13年後に明治維新を迎える。もう少し、生まれるのが遅ければ、長英の人生はまったく、違ったものになったのに違いない。

人間の情熱は凄い。しかし、その運命にもてあそばれる姿は惨めであり、人間は弱い。
なかなか読み応えのある、文庫上・下巻である。


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