丸二日、買い物にゆかないと、いろいろ買ってもなくなるものはなくなって、それ
以外は、いつのものやらわからないという、誰も食べないものとなる可能性があるが、
大体私が買うものは食べるもので、ほとんど毎日食べるから、そうゆうものをいくら三日
分といって買ってもなくなるのは、当然である。
それで仕方なく、また必要でもあるから、寒い中を出かけるが、これは屁理屈で
寒かろうが、暑かろうが、ちょうどいい状態であっても、やはり買い物に行かないと、食べ物
は底を付く。あー、冷蔵庫の満杯状態もあっさりと解消されて、しかし残るものは多く、
ヨーグルトとか、納豆は賞味期限の切れたものがまだたくさん冷蔵庫に残っていて、でも
これは捨てる必要はない。もともと、発酵食品でもあるから、そうゆう歴史もあって時間
がたったというので、慌てて捨てる必要はない。これも自分がそう思うものでそうすべき
ものでもないだろうし、なるべく早く食べるのはおいしさの面からもお奨めである。
それで足下を見ての買い物は始まるが、まだ滑る可能性が十分あってこのような
ところ滑って転んでというのは身も蓋もないので、十分に気を付ける。そうするとよけい
転びそうな気もするが、そのときにバタバタという大きな音がして、まず第一に木の上に
残る雪でも落ちたかと思ったが、そうゆうものはなかったようで、幾分水分は落ちたかも
知れない。しかし、その正体は、
木の上にいた雉が羽ばたいて逃げる音でもあって、恐らくそれに間違いないと判断
している。それにしてもお騒がせな「雉」である。雉も成鳥は大きく、またメスは目立ちに
にくいが、その雉が木の上にいたのを見ているものだから、そのとき、バタバタと突然
大きな音がしたとき、これは雉の羽ばたいた音だと判断したのだが、これは繰り返しか。
普通、雉は地面の上を歩いていて、それで餌を探して、もし危ないとなると、無論翅をバタ
バタといわせて遠くへと飛んでゆくものだが、それにしてもびっくりして、しかし転ばな
かった。
雉のオスはこれは狩猟の認められる生き物でもあって、なんともいう言葉もないの
は、大体人は生き物を食べて生きていて、殺生をしないと生きられない運命にある。そう
ゆうことはわかっているが、雉のオスかーなど思う。その点、メスは狩猟の禁じられている
ものでもあって、それゆえ雉も増えて、あるいは減ってはいないようだが、棲むところが
ないから、このようなところにもやって来る。それで、ときに人をびっくりさせる。なんだ
か、うらみたくもなって来る鳥でもあるようだ。
また雉の鳴き声も非常に哀愁を帯びた声ともいえるが、なんだか苦しそうにも聞こえ
て、この声も耳に、あるいは人にはよくはないように思える。かなりうらみつらみのある、
雉の鳴き声であり、また羽ばたく音でもある。
雉というと、小さなネコと並ぶと雉の方が大きく見えるときもあって、これは実際
ネコが小さければその通りになるが、いくらネコががんばっても雉を捕らえることは出来
ないのではないか。雉とネコが仲良く、というときがあったようだが、恐らくネコの
お腹も減っていなかったからか。
この雪の後遺症は続く。買い物も相変わらず高くついてというのがある。デフレだと
いうのが信じられない。きっと大きなスーパでの安売りが基準になっているのではないか
と思いたくなるくらいで、お金はどんどんと羽をはやして飛んでゆく。まだ商品があるうち
はいいが、ないときもあるから、こうゆうときはたしかに小さなお店は安心感は、ない。
みな大きなお店にゆくからでもある。
鳥に話しを戻して、今見かけるのはムクドリが少々。これは新しい。それから、セキ
レイの黒いもの、これもいろいろあるから、白いが黒いところも多いセキレイ。カラスは
というと、朝に空を飛ぶが今は鄙では少ないようだ。それで、春の訪れを感じさせる、例え
ば「メジロ」などはまだのようだ。今年は、シジュウカラの鳴き声も聞かない。それももっとも
で、雪で雪で、餌はない。キジバトも雪の上を歩くが、それ以上やることはないようだ。
いろいろ錯綜しながら、画像を選ぶというややこしいことをやっている。
もう飽き飽きといわれそうで、しかし雪なのである。
今どきの民家に、このような門はなく、ここは門だけのあるところ。
どうしても絵になるのは、お寺であって、お寺の雪も増えたと思う。
まさしく、雪囲いが大活躍。
鐘撞き台を、入り口の門の下から。
雪の日の雪囲いは少し陰鬱で、晴れるとまったくの風物詩となる。
雪に、松に竹。新年らしさがこの日はあった。
もう少し引いて、雪に、松に竹に、梅。梅は左側。
別の方角から。入れません。
以外は、いつのものやらわからないという、誰も食べないものとなる可能性があるが、
大体私が買うものは食べるもので、ほとんど毎日食べるから、そうゆうものをいくら三日
分といって買ってもなくなるのは、当然である。
それで仕方なく、また必要でもあるから、寒い中を出かけるが、これは屁理屈で
寒かろうが、暑かろうが、ちょうどいい状態であっても、やはり買い物に行かないと、食べ物
は底を付く。あー、冷蔵庫の満杯状態もあっさりと解消されて、しかし残るものは多く、
ヨーグルトとか、納豆は賞味期限の切れたものがまだたくさん冷蔵庫に残っていて、でも
これは捨てる必要はない。もともと、発酵食品でもあるから、そうゆう歴史もあって時間
がたったというので、慌てて捨てる必要はない。これも自分がそう思うものでそうすべき
ものでもないだろうし、なるべく早く食べるのはおいしさの面からもお奨めである。
それで足下を見ての買い物は始まるが、まだ滑る可能性が十分あってこのような
ところ滑って転んでというのは身も蓋もないので、十分に気を付ける。そうするとよけい
転びそうな気もするが、そのときにバタバタという大きな音がして、まず第一に木の上に
残る雪でも落ちたかと思ったが、そうゆうものはなかったようで、幾分水分は落ちたかも
知れない。しかし、その正体は、
木の上にいた雉が羽ばたいて逃げる音でもあって、恐らくそれに間違いないと判断
している。それにしてもお騒がせな「雉」である。雉も成鳥は大きく、またメスは目立ちに
にくいが、その雉が木の上にいたのを見ているものだから、そのとき、バタバタと突然
大きな音がしたとき、これは雉の羽ばたいた音だと判断したのだが、これは繰り返しか。
普通、雉は地面の上を歩いていて、それで餌を探して、もし危ないとなると、無論翅をバタ
バタといわせて遠くへと飛んでゆくものだが、それにしてもびっくりして、しかし転ばな
かった。
雉のオスはこれは狩猟の認められる生き物でもあって、なんともいう言葉もないの
は、大体人は生き物を食べて生きていて、殺生をしないと生きられない運命にある。そう
ゆうことはわかっているが、雉のオスかーなど思う。その点、メスは狩猟の禁じられている
ものでもあって、それゆえ雉も増えて、あるいは減ってはいないようだが、棲むところが
ないから、このようなところにもやって来る。それで、ときに人をびっくりさせる。なんだ
か、うらみたくもなって来る鳥でもあるようだ。
また雉の鳴き声も非常に哀愁を帯びた声ともいえるが、なんだか苦しそうにも聞こえ
て、この声も耳に、あるいは人にはよくはないように思える。かなりうらみつらみのある、
雉の鳴き声であり、また羽ばたく音でもある。
雉というと、小さなネコと並ぶと雉の方が大きく見えるときもあって、これは実際
ネコが小さければその通りになるが、いくらネコががんばっても雉を捕らえることは出来
ないのではないか。雉とネコが仲良く、というときがあったようだが、恐らくネコの
お腹も減っていなかったからか。
この雪の後遺症は続く。買い物も相変わらず高くついてというのがある。デフレだと
いうのが信じられない。きっと大きなスーパでの安売りが基準になっているのではないか
と思いたくなるくらいで、お金はどんどんと羽をはやして飛んでゆく。まだ商品があるうち
はいいが、ないときもあるから、こうゆうときはたしかに小さなお店は安心感は、ない。
みな大きなお店にゆくからでもある。
鳥に話しを戻して、今見かけるのはムクドリが少々。これは新しい。それから、セキ
レイの黒いもの、これもいろいろあるから、白いが黒いところも多いセキレイ。カラスは
というと、朝に空を飛ぶが今は鄙では少ないようだ。それで、春の訪れを感じさせる、例え
ば「メジロ」などはまだのようだ。今年は、シジュウカラの鳴き声も聞かない。それももっとも
で、雪で雪で、餌はない。キジバトも雪の上を歩くが、それ以上やることはないようだ。
いろいろ錯綜しながら、画像を選ぶというややこしいことをやっている。
もう飽き飽きといわれそうで、しかし雪なのである。
今どきの民家に、このような門はなく、ここは門だけのあるところ。
どうしても絵になるのは、お寺であって、お寺の雪も増えたと思う。
まさしく、雪囲いが大活躍。
鐘撞き台を、入り口の門の下から。
雪の日の雪囲いは少し陰鬱で、晴れるとまったくの風物詩となる。
雪に、松に竹。新年らしさがこの日はあった。
もう少し引いて、雪に、松に竹に、梅。梅は左側。
別の方角から。入れません。