毎年、毎月、毎日、大体ものは溜まっていって、それが役立つこともあるのだろう
けれど、それ以上の価値が出るようなものはないし、もう少し今あるものを有効利用でき
ればという思いもあるから、ものはまずは溜まる。ストレスもあるときが有効に働くかも
知れず、それほど捨てることもないし、また出来ない。どっちだというと溜まる。すると
お腹が出るという連鎖反応が起こるが、これも当然といえば、その通り。あー、むつかしい
出来事、難問というものは多い。
ちょっと昔だと、やけに新聞の回収というチラシが入って、このため痛い腰を撫ぜ
ながら、まずは新聞回収紙というものに詰めた。あー、ほとんど読んでいない新聞はかわい
そうで、それも見ているのが広告だとよけいに哀愁が漂う。そうゆうこともあるが、無念
なりと思いつつ、回収袋に入れてしばって、外に出した。だいたい、集める時間にはもう
起きていて、いつ来るかなども見張っている。別に怪しくもないのだが、わからないとき
があって、あれれと思う。しかし、回収されないときもある。これは残念なので、もしも
車が止まり、まだ小さな子供の声が聞こえたりすると、親切でもないが、車までの間、新聞
を運んだりもしたが、その新聞回収がぴたりとなくなり、うずたかく高さは積雪を超えた。
50cmくらいになって、フワフワしている。その辺りに、他のものも置いてあって、下手に
動かす気にもならない。
それから、買い物で必ずレシートは受け取る。出さないというお店にゆく機会は
少なく、だから大体レシートは財布かに入る。そこから取り出して、一応中身を見るが
今は、光学装置での読み取り、バーコードとかいうもので行なわれて間違いは自分の方に
あることになる。バーコードというのも誰が発明したのかわからないが、なかなか有効な
もののようで、しかし人はその指令に従うようで、脳みそに刺激はなく、それは人間の
人間らしさを損なうような、働きがあるようである。でも、一桁間違うと大変で、また二桁
だと間違いもわかりそうだが、信頼しすぎるのもよくはない。これで、ものの売り買いと
いうか、市場の傾向を判断できるという考えがあるようだが、それは十分に商品があって
の場合で、これしか必要なもの、あるいは条件に合うものはない、という判断が消費者に
あるという、観点が落ちているのではないか。
大体、あるものの中から選ぶ。こうゆうものがあれば、という提案は出来ない。しかし、
これはよかったというのは、継承されるようで、しかし、新製品は出る。わからないこと
が多い。
集めているのは、これでレシートというのがわかった。これは多い。昔のもの、昭和の
時代のものもある。あるが、今は棚のどこかにあって、それは見た目にはどこにあるのか
不明である。現役のレシートは、何を買ったか、参考にする。自分が買ったものをまた
レシートを見て買う。これは、まったくバーコードの原理と同じなもので、なんだか
発展性がない。だけれども、こうゆうものが「のちのち」役立つかも知れない。という
のも同じ理屈で、歴史にない、あるいは埋もれたものを発掘する作業は必要で、昔の
カタログとかも有用になるときがある。過去のデータの何が今に有効に作用するか、これを
すべて点検することはしかし大変だなー。
しかし、ここに溜まるものはまずは有効性がない。レシートでそれはもう収束する、
収斂するもののようで、これが何か役立つ可能性はなく、退嬰的としかいえない。
お役所から文書とかは取っておいて意味はあるが、昔むかしの制度というのもこれで
わかる。でも、これもその分野の専門家の方に必要で、自分で持っていてどうにかなる
ものではないようだ。
PR誌。これは溜まる。ずいぶんと溜まって、それが雪より高くなりそうで、これは
ただ除雪の原理と同じで、場所を移動しておしまいである。あー、溜まるものは多く、
この前少しだけ、レシートの一部を捨てた。それから、小さなゴミ箱の中のものも、捨て
た。すこしすっきりした。しかしそれ以外はなかなか手が付かず、どうしようもない状態
だが、これも半分は粘着質の性格から来るもので、自分でもわかってはいるが、でも
これって「ずぼら」と同じだ。わかっていて、しかし片付かない目の前のものも、目の後のもの
や左右のものを見る。
スケールというと小さい。ここの昔の家は大きく、ただ広いだけで、言ってみると
大きな正方形か長方形を、障子とか「ふすま」で区切ったというだけのものであった。それゆ
え、冬はさむく、0℃という気温にも耐えないといけなかった。夏だと暑いというときも
あるが、風も入ってきたようで、いいたいことは空きがありすぎて、ただ空間があった。
これは高級かも。今は足元の覚束なさというのがあって、もう限界に来ている。狭い
ところをするり通り抜けることも出来なくなって、ものはやっぱり溜まる。どこかという
と、これも部屋だが、消えていった使わないというところが物置場になる。そこなど、もと
もと部屋とも呼べないところだ。結局、こうしてまた今年も、役立たずのものと一緒に
ゴミまみれになって生活があると思うが、こうゆうことでも書かないと、なんだか憂鬱症
が亢進しそうである。
そうゆう意味で、きのうひっくり返した電機ヒータでの洪水はものは水浸しになる
と大変であって、いらないものはさっさと捨てるべしということを教えてくれた。ゴミの
少しだけ、消えたようだ。
デジタルのファイルだと、一回、500GBの外部ディスクのデータを処分した 。一瞬に
して消えたかのようになっている。それで、またそれも一杯になって、もう一つのもの
も、同じく500GBの外部ディスクのデータを消した。消したようになっている。ただし、
これらは二重にコピーしたものがあったから。
残りのものはみな、一部のみ。これを消すことが出来るかなー。
スイセンの、別の場所で。
この茶色い昼の光というのは、冬でもあるのだ、と思うが、
これもハードの持っている特性によるようである。
横からしか見えない。
雪の下から、アネモネの葉っぱが出て来た。
緑で、菊科の植物のよう。黄色い花を咲かせる。
お寺にある、ナンテンの木の実もほとんど落ちてしまった。またこの
ナンテンに、キカラスウリが絡まっていて実があった。すべて、下に
落ちていて、見る影もない。
松の木は、元気そうで、でも少ないと思う。
ハボタンも少し元気を回復したか。
けれど、それ以上の価値が出るようなものはないし、もう少し今あるものを有効利用でき
ればという思いもあるから、ものはまずは溜まる。ストレスもあるときが有効に働くかも
知れず、それほど捨てることもないし、また出来ない。どっちだというと溜まる。すると
お腹が出るという連鎖反応が起こるが、これも当然といえば、その通り。あー、むつかしい
出来事、難問というものは多い。
ちょっと昔だと、やけに新聞の回収というチラシが入って、このため痛い腰を撫ぜ
ながら、まずは新聞回収紙というものに詰めた。あー、ほとんど読んでいない新聞はかわい
そうで、それも見ているのが広告だとよけいに哀愁が漂う。そうゆうこともあるが、無念
なりと思いつつ、回収袋に入れてしばって、外に出した。だいたい、集める時間にはもう
起きていて、いつ来るかなども見張っている。別に怪しくもないのだが、わからないとき
があって、あれれと思う。しかし、回収されないときもある。これは残念なので、もしも
車が止まり、まだ小さな子供の声が聞こえたりすると、親切でもないが、車までの間、新聞
を運んだりもしたが、その新聞回収がぴたりとなくなり、うずたかく高さは積雪を超えた。
50cmくらいになって、フワフワしている。その辺りに、他のものも置いてあって、下手に
動かす気にもならない。
それから、買い物で必ずレシートは受け取る。出さないというお店にゆく機会は
少なく、だから大体レシートは財布かに入る。そこから取り出して、一応中身を見るが
今は、光学装置での読み取り、バーコードとかいうもので行なわれて間違いは自分の方に
あることになる。バーコードというのも誰が発明したのかわからないが、なかなか有効な
もののようで、しかし人はその指令に従うようで、脳みそに刺激はなく、それは人間の
人間らしさを損なうような、働きがあるようである。でも、一桁間違うと大変で、また二桁
だと間違いもわかりそうだが、信頼しすぎるのもよくはない。これで、ものの売り買いと
いうか、市場の傾向を判断できるという考えがあるようだが、それは十分に商品があって
の場合で、これしか必要なもの、あるいは条件に合うものはない、という判断が消費者に
あるという、観点が落ちているのではないか。
大体、あるものの中から選ぶ。こうゆうものがあれば、という提案は出来ない。しかし、
これはよかったというのは、継承されるようで、しかし、新製品は出る。わからないこと
が多い。
集めているのは、これでレシートというのがわかった。これは多い。昔のもの、昭和の
時代のものもある。あるが、今は棚のどこかにあって、それは見た目にはどこにあるのか
不明である。現役のレシートは、何を買ったか、参考にする。自分が買ったものをまた
レシートを見て買う。これは、まったくバーコードの原理と同じなもので、なんだか
発展性がない。だけれども、こうゆうものが「のちのち」役立つかも知れない。という
のも同じ理屈で、歴史にない、あるいは埋もれたものを発掘する作業は必要で、昔の
カタログとかも有用になるときがある。過去のデータの何が今に有効に作用するか、これを
すべて点検することはしかし大変だなー。
しかし、ここに溜まるものはまずは有効性がない。レシートでそれはもう収束する、
収斂するもののようで、これが何か役立つ可能性はなく、退嬰的としかいえない。
お役所から文書とかは取っておいて意味はあるが、昔むかしの制度というのもこれで
わかる。でも、これもその分野の専門家の方に必要で、自分で持っていてどうにかなる
ものではないようだ。
PR誌。これは溜まる。ずいぶんと溜まって、それが雪より高くなりそうで、これは
ただ除雪の原理と同じで、場所を移動しておしまいである。あー、溜まるものは多く、
この前少しだけ、レシートの一部を捨てた。それから、小さなゴミ箱の中のものも、捨て
た。すこしすっきりした。しかしそれ以外はなかなか手が付かず、どうしようもない状態
だが、これも半分は粘着質の性格から来るもので、自分でもわかってはいるが、でも
これって「ずぼら」と同じだ。わかっていて、しかし片付かない目の前のものも、目の後のもの
や左右のものを見る。
スケールというと小さい。ここの昔の家は大きく、ただ広いだけで、言ってみると
大きな正方形か長方形を、障子とか「ふすま」で区切ったというだけのものであった。それゆ
え、冬はさむく、0℃という気温にも耐えないといけなかった。夏だと暑いというときも
あるが、風も入ってきたようで、いいたいことは空きがありすぎて、ただ空間があった。
これは高級かも。今は足元の覚束なさというのがあって、もう限界に来ている。狭い
ところをするり通り抜けることも出来なくなって、ものはやっぱり溜まる。どこかという
と、これも部屋だが、消えていった使わないというところが物置場になる。そこなど、もと
もと部屋とも呼べないところだ。結局、こうしてまた今年も、役立たずのものと一緒に
ゴミまみれになって生活があると思うが、こうゆうことでも書かないと、なんだか憂鬱症
が亢進しそうである。
そうゆう意味で、きのうひっくり返した電機ヒータでの洪水はものは水浸しになる
と大変であって、いらないものはさっさと捨てるべしということを教えてくれた。ゴミの
少しだけ、消えたようだ。
デジタルのファイルだと、一回、500GBの外部ディスクのデータを処分した 。一瞬に
して消えたかのようになっている。それで、またそれも一杯になって、もう一つのもの
も、同じく500GBの外部ディスクのデータを消した。消したようになっている。ただし、
これらは二重にコピーしたものがあったから。
残りのものはみな、一部のみ。これを消すことが出来るかなー。
スイセンの、別の場所で。
この茶色い昼の光というのは、冬でもあるのだ、と思うが、
これもハードの持っている特性によるようである。
横からしか見えない。
雪の下から、アネモネの葉っぱが出て来た。
緑で、菊科の植物のよう。黄色い花を咲かせる。
お寺にある、ナンテンの木の実もほとんど落ちてしまった。またこの
ナンテンに、キカラスウリが絡まっていて実があった。すべて、下に
落ちていて、見る影もない。
松の木は、元気そうで、でも少ないと思う。
ハボタンも少し元気を回復したか。