ずっと1時間くらいイライラ病のいろいろ、というのを考えている。イライラしている
と思うからで、それでイライラ病についてどうゆうものがあるかなど考えていると、イラ
イラはなくなるのかも知れない、とも思うのだが、ここまで来た以上書かざるを得ない
であろう。ぼやきでもあって、心身の不調というのもあるが、まずは具体的に並べる必要
がある。これにも、少しイライラする。
目である。人に目があって、耳もあって、簡単に五感と書いて、ここはごまかす。
その目の異変は、若いころは眼鏡で何とかなった。眼鏡が必要になったのは、これはTVの
見過ぎである。大体これは正しい。しかし眼鏡で何とかなったが、最近の不調もずいぶん
と長く、これは老眼で、眼鏡が合わないというのもあれば、いくら眼鏡を新しくしても
またうまく見えないような感じになる。眼鏡を無数用意は出来ず、どのくらいあればいい
か。これは難問で答えはないと思う。で、思うのは眼鏡の問題ではないのではないか、
というもの。別に眼鏡をはめていて、眼鏡を探すというのはない。
ただ眼鏡をはずして、特に私は近眼だから、また乱視もあって誉められたものでは
ないが、老眼では、眼鏡なしで近いものは見える。しかし近いという距離は15cmくらい
で例えば薄い冊子、PR誌などの、紙に黒インクでという媒体だと都合がよく、このときは
自分の目にイライラはしないで、内容というか、わからない、理解できない、賛成出来
ない、むつかしすぎるなどの場合、つまり内容が私をイライラさせるが、これはしかし
度量の狭さと言うべきだろう。
イライラの説明もむつかしい。そうゆうことは、考えていてわかってくるのだが、
もっとも目に関してイライラするのは、ものがそこにあってわからない、ということだ
ろう。いろいろなものは必要があってそこにあるので、耳かきだって、さらにルーペだっ
て、それに赤のボールペンだって必要なときがある。だから置いてあって、それが見え
ないのである。どう探しても見つからない。これがものがないから見つからないのか、目
の前にあってわからないのか、自分でもわからない。こうなると、脳の問題となりそう
で、よけいにこんがらがる。そうゆうところまでゆくことは考えずに、もう少しこのもの
が見えない現象について思うと、なぜかそこにある、という瞬間が逆にいうとあるという
ことで、
これは冷静さの問題かもとも思う。たしかにこれはものを探すということと同じで、
もともと耳でものを探すことはなかった。これは一つのある物体というときのイライラ
でもあって、
それ以外に何があるか。先ほどPR誌のようなものが一番目に負担なく読みやすく、
それゆえ内容に対しての不満があると書いたが、これはそれ以外の、例えばB5判の雑誌と
いうのを見ていると、見えているようでなんにも見えていないような感じ、とそれから
視覚的な不快感があって、それこそB5判の雑誌は多いはずだからこれは困ったことでもあ
る。これを見ているというのは、内容に関係なく、なんだか何が見えているのかわから
ず、また視覚的な不快感、というのがはっきりとして、それゆえ最近は雑誌というのも
買わないことにしている。なんだか残念だが、買わない方が精神的な安心感があるような
で、これは一つは、そうゆう自分の趣味の雑誌など見ていると、どうしても広告も見たり
して、ものが欲しい病というのも出て来るのは必死だから、そうゆうことの予防という
意味もあって、これで雑誌というのは、まったくと言っていいくらい買わないでいる。で、
問題は目のことということ。見え方で、続くが、
これとは別に、例えばハガキなりを書かないといけない、というのがある。年賀は
がき。これは今のところ問題はないことはないが、なんとか大丈夫で、それ以外だと、
例えばお金をおろすときには、ここは昔のままで、カードを使えなくもないが、紙で書い
て人と対面しつつ、おろすということをやる。これなどはまだいい方で、さて、お金を
振り込まないといけない、というときなどは、書く場所を間違える。これも注意力という
ものもあるが、目力(メヂカラ)がなくなってということも関係しているだろう。ものを
書くというのは、それこそものを読むというときより緊張を強いられるが、そうゆう場合
はまだ限られて、やはり何かを読むというときの不快感、というもの。そのイライラが
甚だしい。どうなってゆくのか、という思いである。
やっぱり何かを書くというのは大変で、しかしもう書くこともないかも知れないが、
老眼・近眼が進むと、文字のものでなくても、あらゆるものが見えにくく、またどこに
それがある、という問題に到達する。ブログに関係するものだとキーボードの誤打という
のももう当然であって直すのに時間をかなり必要とする。それからカメさんを扱うとどう
してもレンズの汚れ、それから液晶でもそれを感じるが、これは眼鏡をはずさないとわか
らない。つまり裸眼で初めてわかるのだが、さて掃除となると、また眼鏡をはめてはずし
て、はずしてはめてということになる。ブロアとかレンズペンを見る、探すに眼鏡をはめて
レンズを拭いて、もとに掃除道具を戻すときは眼鏡がいる。この野暮ったさ。老眼・近眼
が如何様に不便か。ころっと何かが転がる、それがボールペンのキャップにしろ、転がった
らわからない。手が滑ってコロリンコ。ツルツルの手では引っかかるところなし。あー、
いくら書いても、イライラしてきて、この病は直らない。
単調なものの続く、この鄙の周辺で。
今日は、空の青色、それからいくらかの緑。こじつけとねじれ。
ちょうど液晶に三分割の格子線が入るように設定。下側に地平辺りを
合わせている。
個人的な思いだとお墓のある方向。この空にしかしあるものはなし。
空は海のように青く、海は空のように青いかなー。
学校ですね。
お地蔵さんの花、その二、を入れて。
ミステリはないと思う、トラクタの車輪の跡。
一部水中植物。
同じ麦畑が続く。でも、ここの田んぼに麦畑は、昔あったという記憶が
ない。一番新しい画像で、緑に元気なし。
この雪は、美しいかも知れない。こうゆうものの大きいのが宇宙に
あって、あるものは太陽の周りを回る。それが「ほうき星」だったり
もする。
と思うからで、それでイライラ病についてどうゆうものがあるかなど考えていると、イラ
イラはなくなるのかも知れない、とも思うのだが、ここまで来た以上書かざるを得ない
であろう。ぼやきでもあって、心身の不調というのもあるが、まずは具体的に並べる必要
がある。これにも、少しイライラする。
目である。人に目があって、耳もあって、簡単に五感と書いて、ここはごまかす。
その目の異変は、若いころは眼鏡で何とかなった。眼鏡が必要になったのは、これはTVの
見過ぎである。大体これは正しい。しかし眼鏡で何とかなったが、最近の不調もずいぶん
と長く、これは老眼で、眼鏡が合わないというのもあれば、いくら眼鏡を新しくしても
またうまく見えないような感じになる。眼鏡を無数用意は出来ず、どのくらいあればいい
か。これは難問で答えはないと思う。で、思うのは眼鏡の問題ではないのではないか、
というもの。別に眼鏡をはめていて、眼鏡を探すというのはない。
ただ眼鏡をはずして、特に私は近眼だから、また乱視もあって誉められたものでは
ないが、老眼では、眼鏡なしで近いものは見える。しかし近いという距離は15cmくらい
で例えば薄い冊子、PR誌などの、紙に黒インクでという媒体だと都合がよく、このときは
自分の目にイライラはしないで、内容というか、わからない、理解できない、賛成出来
ない、むつかしすぎるなどの場合、つまり内容が私をイライラさせるが、これはしかし
度量の狭さと言うべきだろう。
イライラの説明もむつかしい。そうゆうことは、考えていてわかってくるのだが、
もっとも目に関してイライラするのは、ものがそこにあってわからない、ということだ
ろう。いろいろなものは必要があってそこにあるので、耳かきだって、さらにルーペだっ
て、それに赤のボールペンだって必要なときがある。だから置いてあって、それが見え
ないのである。どう探しても見つからない。これがものがないから見つからないのか、目
の前にあってわからないのか、自分でもわからない。こうなると、脳の問題となりそう
で、よけいにこんがらがる。そうゆうところまでゆくことは考えずに、もう少しこのもの
が見えない現象について思うと、なぜかそこにある、という瞬間が逆にいうとあるという
ことで、
これは冷静さの問題かもとも思う。たしかにこれはものを探すということと同じで、
もともと耳でものを探すことはなかった。これは一つのある物体というときのイライラ
でもあって、
それ以外に何があるか。先ほどPR誌のようなものが一番目に負担なく読みやすく、
それゆえ内容に対しての不満があると書いたが、これはそれ以外の、例えばB5判の雑誌と
いうのを見ていると、見えているようでなんにも見えていないような感じ、とそれから
視覚的な不快感があって、それこそB5判の雑誌は多いはずだからこれは困ったことでもあ
る。これを見ているというのは、内容に関係なく、なんだか何が見えているのかわから
ず、また視覚的な不快感、というのがはっきりとして、それゆえ最近は雑誌というのも
買わないことにしている。なんだか残念だが、買わない方が精神的な安心感があるような
で、これは一つは、そうゆう自分の趣味の雑誌など見ていると、どうしても広告も見たり
して、ものが欲しい病というのも出て来るのは必死だから、そうゆうことの予防という
意味もあって、これで雑誌というのは、まったくと言っていいくらい買わないでいる。で、
問題は目のことということ。見え方で、続くが、
これとは別に、例えばハガキなりを書かないといけない、というのがある。年賀は
がき。これは今のところ問題はないことはないが、なんとか大丈夫で、それ以外だと、
例えばお金をおろすときには、ここは昔のままで、カードを使えなくもないが、紙で書い
て人と対面しつつ、おろすということをやる。これなどはまだいい方で、さて、お金を
振り込まないといけない、というときなどは、書く場所を間違える。これも注意力という
ものもあるが、目力(メヂカラ)がなくなってということも関係しているだろう。ものを
書くというのは、それこそものを読むというときより緊張を強いられるが、そうゆう場合
はまだ限られて、やはり何かを読むというときの不快感、というもの。そのイライラが
甚だしい。どうなってゆくのか、という思いである。
やっぱり何かを書くというのは大変で、しかしもう書くこともないかも知れないが、
老眼・近眼が進むと、文字のものでなくても、あらゆるものが見えにくく、またどこに
それがある、という問題に到達する。ブログに関係するものだとキーボードの誤打という
のももう当然であって直すのに時間をかなり必要とする。それからカメさんを扱うとどう
してもレンズの汚れ、それから液晶でもそれを感じるが、これは眼鏡をはずさないとわか
らない。つまり裸眼で初めてわかるのだが、さて掃除となると、また眼鏡をはめてはずし
て、はずしてはめてということになる。ブロアとかレンズペンを見る、探すに眼鏡をはめて
レンズを拭いて、もとに掃除道具を戻すときは眼鏡がいる。この野暮ったさ。老眼・近眼
が如何様に不便か。ころっと何かが転がる、それがボールペンのキャップにしろ、転がった
らわからない。手が滑ってコロリンコ。ツルツルの手では引っかかるところなし。あー、
いくら書いても、イライラしてきて、この病は直らない。
単調なものの続く、この鄙の周辺で。
今日は、空の青色、それからいくらかの緑。こじつけとねじれ。
ちょうど液晶に三分割の格子線が入るように設定。下側に地平辺りを
合わせている。
個人的な思いだとお墓のある方向。この空にしかしあるものはなし。
空は海のように青く、海は空のように青いかなー。
学校ですね。
お地蔵さんの花、その二、を入れて。
ミステリはないと思う、トラクタの車輪の跡。
一部水中植物。
同じ麦畑が続く。でも、ここの田んぼに麦畑は、昔あったという記憶が
ない。一番新しい画像で、緑に元気なし。
この雪は、美しいかも知れない。こうゆうものの大きいのが宇宙に
あって、あるものは太陽の周りを回る。それが「ほうき星」だったり
もする。