空気が暖かいと、晴れる。それも冬場、空気が冷たいと雨か雪、冬型。今日は冬型は
緩んで、それで晴れた。なんだかおかしな気もするが、まー晴れたからいい。滅多にない、
というか、今の天気予報ではあり得ない、晴れの領域に入って、空は青い。それからお日様が
顔を出す。こうゆうときがもっとあっていいのが、この辺りの北陸のいいところだけど、ただ
記憶というのは結構怪しいから、雪が舞ってもそのときの気分しだいで、どうにでも解釈
できるような、というのが本当のところだろう。
このところ、暖冬といいながらそうでもないようで、気象庁も神経をピリピリとさせて
いることだろう。そのおかげか、お天気の神様もこの辺りは晴れのお天気にしてくれた。まさ
しく点の世界で、そうゆうものは面積を持たないもので、点をいくら集めてもそれは点で
しかない。重さを持たないものとか、それから同じものであるからという理由で、分ける、
分別出来ない、という考えもある。これはわかりやすいようで、何のことだかよくはわから
ないものだ。
同じ一円玉でも、見分けることは出来るが、ある粒子はこれとこれとは別でなく、同じ粒子
ということで、分けられないというもの、という概念もあるようで、そうゆう奥深い世界での
成り立ちが今見るこの世界を特徴付けるというから、これまたおかしなことである。たしかに、
水分子を一々、aの1など、分けることも出来ない。すべてが同じ水である。だから、この
水はどこどこから流れてきたから、汚いとかいうことも出来ないのだ。不思議な出来事という
のはいくらでもありそうで、
今日は、雪ときどき曇りの天気予報で、そうではない結果にもなったもので、結構あり
がたかった。ただそれだけを言いたかったのである。それで、
少しでも位置が異なると、やっぱり雪も降ってということになる。山間部ではそうで
あろう。でも、お昼のニュースでも今日は冬型が緩んだとあったから、点というものでなく、
面積のある区域、地域という単位で今日は、晴れのお天気でもあったようだ。それでも朝方は、
立山連峰も見えていたというか、雲の下に薄っすらとその偉容を見せていたが、日中になって
それは見えなくなった、と思う。たしか、青空は出てお日様も出たが、東に見える高峰の山々
は見えなかったはずであって、空気はいろいろな状態にある。
室温でいうと、今のところ、電気ヒータをつけてどうにか10℃くらいになれば、程ほど
と思える。それ以上になるには、太陽の力を借りないといけないが、今日は最高でいうと、
室温だが15℃近くまで上がったようで、ただこのくらいの気温はというと、なんだか体が
忘れているようでもあって、特に感激する暖かさではないようだ。それに比べてやはり太陽光
が直接当たると、ポカポカする感じもあるが、
今日は実は朝から、携帯用のカイロ、使い捨てというか、そうゆうものを背中に貼り付け
てもいた。すると、ある時間はあったかいな、というのがはっきりとする。いったいに何年
ぶりの、この金属の酸化で発生すると思われる熱の暖かみを感じたことか。恐らく、10年は
使っていない。もっとも、その携帯用カイロを使ったのはちょっと特殊な時期でもあって、
それ以外はこれまでも使わないのが当たり前であって、そうゆう意味では、携帯用の、使い捨て
カイロがいよいよ役に立つという年齢になったのかも知れない。それゆえ、
少しの時間だけ歩くことにしたが、もう、一度貼り付けたし剥がすことも出来ずに、そのまま
厚着で外に出たら、恐らくそのカイロも必要ないと思ったものだが、途中から汗が出た。やっぱり
なー。なんだかこうゆういいお天気になるとは思わないから、カイロを貼ったが、汗が
出るようでは逆効果?。
これも使いようということであろう。どの辺りに貼るのが効果的か、というのも考えどころ
だが、このカイロたしかに暖かい。しかし、どうも心的な冷たさには効果はないようで、そう
ゆう意味では他の何かが必要に思えるが、それが何かわからない。
歩いて、サイコロを降る場面、ここはあまり行っていない方向へと行くことにした。
もっとも足場の状態もわからず、ちょっとだけという気分である。かなりブカブカの靴と
いうのも長歩きには適さない。
忘れていたかも知れない、分岐辺りの、ツバキの様子。それから遠い昔は小川であった
と思える、大きな用水と雪との組み合わせ。今頃でしかない光景でもある。
地の白も、地面の白も雪の白も、一緒になって、ツバキ。
ツバキも今年は、去年からの冷夏を引きずっているし、またこの寒さで
元気はないようだが。
雪のツバキの花。一度落ちて、雪に埋もれて溶けて今があるのだろう。
下のほうに目をやると、ほどほどにきれいな花が。
雪国ツバキの宿命から、なかなか逃れられない。
今は流れるのは、ほとんどが雪どけの水。それゆえ、流れはゆったり。
今だけの、用水の雪との組み合わせ。
反対の方向。
橋とその下の小さな流れ。今頃子供のときによく聞かされた、「お前は
橋の下から拾ってきた子供」、などいうせりふを思い出す。
緩んで、それで晴れた。なんだかおかしな気もするが、まー晴れたからいい。滅多にない、
というか、今の天気予報ではあり得ない、晴れの領域に入って、空は青い。それからお日様が
顔を出す。こうゆうときがもっとあっていいのが、この辺りの北陸のいいところだけど、ただ
記憶というのは結構怪しいから、雪が舞ってもそのときの気分しだいで、どうにでも解釈
できるような、というのが本当のところだろう。
このところ、暖冬といいながらそうでもないようで、気象庁も神経をピリピリとさせて
いることだろう。そのおかげか、お天気の神様もこの辺りは晴れのお天気にしてくれた。まさ
しく点の世界で、そうゆうものは面積を持たないもので、点をいくら集めてもそれは点で
しかない。重さを持たないものとか、それから同じものであるからという理由で、分ける、
分別出来ない、という考えもある。これはわかりやすいようで、何のことだかよくはわから
ないものだ。
同じ一円玉でも、見分けることは出来るが、ある粒子はこれとこれとは別でなく、同じ粒子
ということで、分けられないというもの、という概念もあるようで、そうゆう奥深い世界での
成り立ちが今見るこの世界を特徴付けるというから、これまたおかしなことである。たしかに、
水分子を一々、aの1など、分けることも出来ない。すべてが同じ水である。だから、この
水はどこどこから流れてきたから、汚いとかいうことも出来ないのだ。不思議な出来事という
のはいくらでもありそうで、
今日は、雪ときどき曇りの天気予報で、そうではない結果にもなったもので、結構あり
がたかった。ただそれだけを言いたかったのである。それで、
少しでも位置が異なると、やっぱり雪も降ってということになる。山間部ではそうで
あろう。でも、お昼のニュースでも今日は冬型が緩んだとあったから、点というものでなく、
面積のある区域、地域という単位で今日は、晴れのお天気でもあったようだ。それでも朝方は、
立山連峰も見えていたというか、雲の下に薄っすらとその偉容を見せていたが、日中になって
それは見えなくなった、と思う。たしか、青空は出てお日様も出たが、東に見える高峰の山々
は見えなかったはずであって、空気はいろいろな状態にある。
室温でいうと、今のところ、電気ヒータをつけてどうにか10℃くらいになれば、程ほど
と思える。それ以上になるには、太陽の力を借りないといけないが、今日は最高でいうと、
室温だが15℃近くまで上がったようで、ただこのくらいの気温はというと、なんだか体が
忘れているようでもあって、特に感激する暖かさではないようだ。それに比べてやはり太陽光
が直接当たると、ポカポカする感じもあるが、
今日は実は朝から、携帯用のカイロ、使い捨てというか、そうゆうものを背中に貼り付け
てもいた。すると、ある時間はあったかいな、というのがはっきりとする。いったいに何年
ぶりの、この金属の酸化で発生すると思われる熱の暖かみを感じたことか。恐らく、10年は
使っていない。もっとも、その携帯用カイロを使ったのはちょっと特殊な時期でもあって、
それ以外はこれまでも使わないのが当たり前であって、そうゆう意味では、携帯用の、使い捨て
カイロがいよいよ役に立つという年齢になったのかも知れない。それゆえ、
少しの時間だけ歩くことにしたが、もう、一度貼り付けたし剥がすことも出来ずに、そのまま
厚着で外に出たら、恐らくそのカイロも必要ないと思ったものだが、途中から汗が出た。やっぱり
なー。なんだかこうゆういいお天気になるとは思わないから、カイロを貼ったが、汗が
出るようでは逆効果?。
これも使いようということであろう。どの辺りに貼るのが効果的か、というのも考えどころ
だが、このカイロたしかに暖かい。しかし、どうも心的な冷たさには効果はないようで、そう
ゆう意味では他の何かが必要に思えるが、それが何かわからない。
歩いて、サイコロを降る場面、ここはあまり行っていない方向へと行くことにした。
もっとも足場の状態もわからず、ちょっとだけという気分である。かなりブカブカの靴と
いうのも長歩きには適さない。
忘れていたかも知れない、分岐辺りの、ツバキの様子。それから遠い昔は小川であった
と思える、大きな用水と雪との組み合わせ。今頃でしかない光景でもある。
地の白も、地面の白も雪の白も、一緒になって、ツバキ。
ツバキも今年は、去年からの冷夏を引きずっているし、またこの寒さで
元気はないようだが。
雪のツバキの花。一度落ちて、雪に埋もれて溶けて今があるのだろう。
下のほうに目をやると、ほどほどにきれいな花が。
雪国ツバキの宿命から、なかなか逃れられない。
今は流れるのは、ほとんどが雪どけの水。それゆえ、流れはゆったり。
今だけの、用水の雪との組み合わせ。
反対の方向。
橋とその下の小さな流れ。今頃子供のときによく聞かされた、「お前は
橋の下から拾ってきた子供」、などいうせりふを思い出す。