光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

原始の風景、その一

2010-01-31 19:44:40 | 散策
  ここへの書き込みは、2006年から始まって、その前に公開されない同じようなもの
紹介されて、ブログのようなは始まったから、ブログはまったくの初めてでない、といえ
る。そこは止めた。今でも紹介してくれた人に申し訳ないと思う。それから、いくらか
時間がたって、結構大きな事件、自分にとって、が起こった。父の救急車での搬送という
もので、生まれて初めて救急車に乗ったことになる。それがその後ブログを書くという
一因になったと思う。相当大きいものがあると思う。思った。
  で、しかし、問題はというと、

  私には、父はそう簡単に病気で動けなくなる、意識が混沌となる、という感じはなかっ
た。すでに認知症は進んでいたが、生命の別条というのは、当分ないと信じていて、結果は
そのときもそうだった。彼は、ゾンビのようによみがえるものであって、最初と、2回目
は連続していて、2回目は、2006年のお正月で、しかし彼はやはりゾンビのようで、また
「うち」に帰って来た。昔から、彼は丈夫というか健康で、まずは他の人に負けない、体
力というものがあったようだ。力自慢ではなく、しかし持久力があって、寝なくても大丈
夫でもある、寝ながら食事をして、それでずいぶんと長く勤めというのもやっていて、まっ
たくしかし人に強く当たるということもなく、ほとんど滅私奉公で、
  それゆえ、彼が意識が混沌となることに驚くのである。しかしそれはしばらくして、
なくなったようだが、その「先」は結果だがさほどは長くなかった。このことも今も信じら
れないような気持ちである。

  2008年に三度目の救急があって、そのときはたしかに容態は昔と違った。彼は救急車
の中で意識を回復することはなく、でも、朝早く病院に着いて、そばにはいなかったが、
「痛い」、というもっとも父らしい声を聞いたのが一番元気そうで、しかしその後に彼は
その声の調子を戻さなかった、と思う。彼の声か、というのも疑問が残るが、それが父の
声だ、というのは子供の私がいうから、半分は当たっていると思う。その後、結局彼は
医師のいう通り亡くなった。しかし、亡くなるまで4ヶ月くらいがんばってくれて、最初は
ゾンビだと思ったが、その時間は短かった。いくつかの儀式というものがあると思う。
死に至るまでの儀式。通過儀礼ともいえるかも知れない。そのことに触れたことはない、
と思う。
  最初になんだか暗い話しを書いたが、原始の風景であり、またブログを始めるという
のも、彼の容態の悪化というものがより強い動機にもなったようなので、少しだけ触れた。
これを書かないとなんとなくだがなぜ今があるかがわからない、と思う。

  やっぱりものごとを説明的に書くというのはむつかしい。もっと短く自分の頭の中
で考えられていて、それを現わすと長くなる。

  原始の風景というのはいい大人になって思い出されるもので、それはというと、まっ
たく自分と重なるものがあるが、ある場所を歩いているお母さんとヨチヨチかあるいは
しっかりと歩くことの出来る、子供さんが主人公で、それでどうしたというと、お母さん
は少しぷりぷりして、何か荷物を持っている。で、歩くことの出来る子供はなぜか泣い
ている。泣きじゃくっているようで、お母さんは冷たい。なぜか、それは持ち物からわ
かったようなで、どうもオムツ、というものらしい。なかなかオムツがはずせない、という
のは小さな子供さんを持つお母さんにとって、かなりのストレスであり心配事のようだ。
それをなぜ気にして、その光景を見て複雑な思いをするかというのは、私がそうゆ立場に
いたからで、早い話しがオネショを長くしていた。それゆえ母は結構心配したらしい。もっ
とも、今は母はこのことを忘れていて他のことで私のことをいろいろいう。

  母の立場と、子供の立場というのも理解できて、どっちだというと親に甘えたい子
供が気の毒か、と思う。泣きじゃくりながら歩く姿が滑稽だが、しかし昔の自分という
のをはっきりとさせてくれて、ときどきこの光景を思い出す。オネショがどうゆう風に
して直ったかというのは、私もよくはわからないが、どうにか小学校にゆくまでに直った、
ということだろう。でも、それ以外でというと概してここに書き表わせることはないか
ら、秘密裏というものは多い。

  ダラッとした話題で、今日は現代で今の今日は、外が暖かかった。つまり「いえ」
の中が寒かったのである。それゆえ結構に寒々しい感じで、やらないと始まらないもの
の手をつけ始めたが、いかにもスローモである。もう一年の半分くらい終わったという
感じのする、1月の終りである。
  もう少し付け加えると、さて今日は暖かいからか、これは外の方がいえの中より
暖かく、また外自体も結構暖かく、珍しくはないが、ネコが小走りになるのを見かけた。
何も持たないで、ただ傘だけは持って歩いていたが、こうなると返って気分は楽で何もし
ないでいい気楽さがものをよく見せたりするようで、普段見えないものも見えたりとい
うのがあるのではないか。目的があるとそれは見えない。そのネコは、
  少し前に見た、これはカメさんに写ったが同じ縞々のトラで、でも大きさが一回り
小さく、またかなり神経質な感じもあったから、この前のトラとは違う。その小さな
トラのほうも少し前にやっぱり走っていた。この点が似ている。走るネコ、それも野良
のは、なんだかかわいそうだが、もっともネコらしいという思いもある。ネコは走る、
というのも原始の風景で本能なのだろう。



  いくつかの風景の追加。



  ハクモクレンと思える、蕾。中央測光で蕾の色も出ている。




  キカラスウリの実が、雪で落ちた。その後、その実を見ていると、あま
  り見よいものでもないと思えたが、また気を取り直して、それを撮った。
  タネがあるのが新鮮かな。




  キカラスウリがぶら下がっていた、ナンテンで今はその実も少ないが
  葉っぱの赤い色がいいかも。




  同じところに、フキ(蕗)も出てくる。フキノトウはさすがになかった。




  竹の色。これも中央重点測光だと色の違いまではっきりと出て、
  ものの色の場合は、中央測光がいいようである。




  ここはお寺でもあって、よく出るが、なぜかこのイチョウを撮っていると
  曇りか雨というときに、わずかに太陽の日が漏れた。だから輝いた。




  雪が降らない時間が約二週間あって、雪を知らないサザンカの色は
  鮮やか。


  画像の一枚が重複していて、もう一枚あるはずだが、他のPCにあって
  後から追加します。

  間違いの訂正です。二重に送信しているだけで、全部で7枚で、正しか
  ったです。申しわけありません。

  

人生のんびり

2010-01-31 15:50:14 | 散策
  突然か、「人生のんびり」という言葉を
  座右の銘にしているのがいるのを思い出した。

  学生のときは、たしか一学年か二学年、下で
  しかしそのときから、堂々としていて
  おっさんというか、オヤジの風格があった。

  その後、年賀状をやり取りするくらいしか付き合いはないが
  その年賀葉書きに毎年、「人生のんびり」の印を押してくる。
  それが恐らく20年以上は続いていて、もっとかも知れない。

  さほどのんびり出来ないと思う。だからそうゆう言葉が出る。
  反対に、のんびりしているのは実のところ自分だったりもする。
  それにしては余裕がなさすぎる。

  今日は「いえ」の中より、外のほうが暖かかった。これも
  人生のんびりを示唆しているようで、よかった。


  大空を眺めるの図。




  ほどほどの空。木はカエデ。




  残り雪。イノシシのようである。これは空はなかった。




  虹。




  西に傾く太陽。




  その二。何だか汚いところがある。そういえば寒いから、窓から
  撮っていた。窓越し。



  三様の明るさ。




  朝の、大木。




  日の出のしばらく後、太陽が雲から出た。




  明るさの違いの、妙。
 
  写真は、人生のんびりとは関係がなかったようだ。



夕日と満月

2010-01-31 06:44:32 | 散策


  春らしいかも知れない。
  石の灯籠。


  朝のお天気は、雲の多い晴れ、か曇り。風が少しあって、シルエットの木の枝が揺れている。きのうが満月だった月もまだ沈まず見えている。十六夜の月、と言っていいか。お天気は、晴れだが長続きはしないようだ。
  アメダスの6時の気温、5.0℃。気圧は1020.0hPa、湿度は63%。室温は、7.7℃。
  気温は上がっていて、きっと南風の影響があり、また雲の多い夜というのもありそう。

  きのうは満月、知らなかった。というか忘れた。よく忘れる。で、その前はというと、日が出ていて、まだ沈んでいなかった。夕方の明るさが戻ってきた。日の入りの時刻は、もう午後5時をすぎているかも知れない。赤い夕日が、竹の葉っぱから、漏れてくる。いいような悪いようなで、竹取物語はない。
  それで、夕日がまだ落ちない。北側に残っていた、雪ももう消えるかなど見ていたから、夕日は沈むまで出ていたのだろう。

  よくTVの天気予報を見て、あー雪だとか雨だとかいって、嘆く人がいる。外は明るく、ときに太陽が出ていて、そうゆうことを言う。一言、晴れているだろー、などどうしても言いたくもなるが、もう止めようかと思ったりもする。大体そのような傾向は、私にもあって、夜は雪か曇り、と決めている。
  だからきのうは、満月とか、月が、火星も、地球に近いという、ことをネットで見てから、それで、外を夜空を眺めるということをやった。
  なるほど、満月が東の空高く、煌煌と輝いていた。満月である。たしかに、まあるい。そのさらに左上に、満月の光でもまだ消えない、火星の明るさがあった。火星も今地球に接近していて、もう遠ざかりつつある。お隣さんとの距離の絶対的なものは大した変化はないが、アッチにいったり、こっちに来たりで、明るさが大いに変わる。その火星が明るいことが満月によって説明された。

  先ほどは、見えなかった、満月をすぎた月が少したって、西の空にあった。今日は1月の31日。まだ2月ではない。十六夜の月も2回あったということになるのか。