なんでも「江戸文化を語る上では欠かすことのできない大御所」だそうだ。
しかし僕はその名前を聞いたこともなかった。
しかしたとえば肉筆画に賛を入れるのに膨大な量の依頼を捌くために門人に書かせたり、偽作も多く真偽の判定を難しくしていると聞けばただの人ではなかろう。
さらに「浮世絵類考」では31人の浮世絵師を取り上げて評価しているが現代でもしばしば引用されると聞けばやはり大物だ。
「蜀山人」の号を用いた大田南畝という人だ、この人の展覧会を太田記念美術館に観にゆく。
どういうわけか制服姿の高校生が目に付いたが先生の指示か、いい先生だ。
この人、大田南畝は18歳で処女作をあらわし、平賀源内の序をもつ「寝惚先生文集」で一躍有名になったという。
で、この人の肖像画をいろんな人が描く、北斎も描く。
どうやら前半生は狂歌檀の盟主となったようだ、「四方赤良」とかいろいろな号をもつ。
もちろん「蜀山人」の号もその一つだ。
狂歌が「俗」なら、漢詩は「雅」の側面だ。生涯の課題となったという。
その他、谷文晁、酒井抱一をはじめとする文人との交流などこの人の活躍には枚挙にいとまがないが、この人が黙して語らなかったことがある。
語られなかったから展示には反映されずカタログにのみ論考が収録されるが、それは息子のことだ。
「幾程もなく乱心して、ついには廃人になりたり」と別の人の日記にはある。
精神に異常をきたしたのだ。
親南畝としても治療の必要性を感じたということを示唆する日記が一か所見つかるというが、南畝の苦悩はいかほどだったであろうか。
そう思って晩年の肖像画をみてみるとまた違った雰囲気も見えてくるように思う。