私のブログで、心を込めて綴るわが郷土出身の藤田まさと先生の、「流転」のいつもながら謎めいた冒頭の歌詞に、流れ流れてたどり着いた方がコメント。
「通りすがりの人」。タイトル「賽の目くずれ」
「はじめまして。
私、趣味で言葉遊びの「雑俳」と言う「笑点」の様な事を大の大人が案外本気で取り組んでいる会に所属している者でございます。
今回、何故こちらのブログにたどり着いたかを申しますと、近々臨時の勉強会を催すにあたり出された兼題が「物者附(ものはづけ)」と言う種目になりました。
「○○であるするものは」と言う形式で出題されるのですが「○○」の部分を裏に隠して、表現上は別の言葉で裏のお題を想像させる句を作らねばなりません。
今回の兼題に「鳥であるするものは」と言うお題が出まして十名ほどの同人が各々八句出句、計八十句の中から秀句を八句選ぶにあたり中に「賽の目」という投吟が見られました。この句の裏にあるべき「鳥」のもの事は何であろうかと考えておりました。
おそらく「渡り鳥」、もしくは「旅烏」の「賽の目次第の旅から旅へ」的な演歌の歌詞から
前記ののどちらかを込めた句でであろうと読んだので、そのような歌詞の歌が有るかとPC上で探しておりましたところ貴方様のブログを拝見するに至りました。
さて、前置きが長くなりましたが貴ブログの中に「流転」の歌詞中「男命を みすじの糸に 賭けて 三七 二十一目(賽の目) くずれ」の意味が…を拝見致しまして「裏は何だろう?」と考えてみました。
後の映画の内容なども参考に私なりに想像致しました。
二十一は単に三と七を掛けた数字と言うよりも、サイコロの面がそれぞれ方位を表す…「一天地六」「南三北四」「東五西二」の反対両面の和が七であり、且つ全ての面に方位の意が含まれておる様ですので、この「一・六」「三・四」「五・二」の七目掛ける三組の「三七」なのだと思います。
つまり流れ流れて「天地四方」のどこにも身を置く場所が無いほどその身を持ち崩しててしまった。「賽の目崩れ」のはみ出し者だと言っているのではないでしょうか。
三は「三筋の糸の三」と「三組の七目」の「三」の掛け調でもありましょう。
あとに続く「浮世かるたの 浮き沈み」博打の札の裏表、浮き沈みに人生をなぞらえたものてしょう。
昔の演歌の作詞家は都々逸における造詣がかなり深く七五調あるいは七七調での作詞がその殆どで七音の内訳も都々逸の「三・四 四・三 三・四 五」のリズムを踏まえて作詞されているように思えます。
おそらく演歌のリズムが単調にならずに尚且つスムーズに聞こえる様な語彙運びにする事が身に付いていたのではないでしょうか。
演歌には粋で素敵で泣かせるフレーズが沢山あり私の様に「雑俳」を志す者にとっては大変勉強になる
「学校じゃ教せえない」教科書なのです。
末永くご健勝でブロクをお続けになられる事を心よりお祈り申し上げております。
生意気な事を長々と書きなぐり失礼いたしました。」
拙宅ブログまでよくお越しいただきました。
あらためて、一つのフレーズ賽の目くずれをとっても、いろんな角度からの考察、きりこみでこんなにも解釈が広がるとは。
それにしても、「雑俳」という、日本語の持つ妙を得た使いまわしを掘り下げ、裏に隠されている真理を探究するご趣味とは・・・。
まるで、裏心理を探究するポケモンGOか・・・!?
それにしても、考察は尽きなく、賽の目そのものの意義を青竜・朱雀・白虎・玄武をなぞるがごとく、方位に意義を見つけ、しかも崩れに男の流転を導く。
今、藤田まさと先生がご存命なら、通りすがりの人に、座布団1枚というだろう。
しかし、いずれにしても、流転の世界は藤田先生の心の中。
ただ、通りすがりさんが述べるように、「昔の演歌の作詞家は都々逸における造詣がかなり深く」はもちろん、藤田先生の博学は、検証済み。
もう三十数年前、藤田先生がお亡くなりになった後に奥様から家の蔵書を寄贈すると申し出があり、あの当時の私を含めた榛原町職員の数名が、目黒のご自宅に行き、蔵書の記録と梱包を数日かけ行う予定だった。
しかし、藤田氏のお宅の壁という壁には、すべて頑丈な本棚が据え付けられ、ここにびっしり本が納められていた。
その数2、3千冊。
ジャンルはありとあらゆるもの。
冊子から専門書、哲学から美術集など。
それこそ、その蔵書で図書館が成り立つほどの量と質。
結局、1冊1冊記録して搬送などと言っていたら何か月かかるかわからないので、とにかく梱包して、トラックに積みこみ配送することでなんとかしのぐ。
そんな情報に埋め尽くされた藤田先生の頭の中だからこそ、洗練されたひとこと一言の言葉が湧き上がり、人に愛される歌詞が出来上がっていたのだろう。
通りすがりの方、ご教示ありがとうございます。
解釈はいろいろあり、やはり、最後は藤田先生に聞くしかありません(!?)。
でも、残された者が想像を高め議論し合うことは、先生の遺徳に近づくこと。
最後、このブログへのエールをいただきました。
お互いに、切磋琢磨、精進していきましょう。
「通りすがりの人」。タイトル「賽の目くずれ」
「はじめまして。
私、趣味で言葉遊びの「雑俳」と言う「笑点」の様な事を大の大人が案外本気で取り組んでいる会に所属している者でございます。
今回、何故こちらのブログにたどり着いたかを申しますと、近々臨時の勉強会を催すにあたり出された兼題が「物者附(ものはづけ)」と言う種目になりました。
「○○であるするものは」と言う形式で出題されるのですが「○○」の部分を裏に隠して、表現上は別の言葉で裏のお題を想像させる句を作らねばなりません。
今回の兼題に「鳥であるするものは」と言うお題が出まして十名ほどの同人が各々八句出句、計八十句の中から秀句を八句選ぶにあたり中に「賽の目」という投吟が見られました。この句の裏にあるべき「鳥」のもの事は何であろうかと考えておりました。
おそらく「渡り鳥」、もしくは「旅烏」の「賽の目次第の旅から旅へ」的な演歌の歌詞から
前記ののどちらかを込めた句でであろうと読んだので、そのような歌詞の歌が有るかとPC上で探しておりましたところ貴方様のブログを拝見するに至りました。
さて、前置きが長くなりましたが貴ブログの中に「流転」の歌詞中「男命を みすじの糸に 賭けて 三七 二十一目(賽の目) くずれ」の意味が…を拝見致しまして「裏は何だろう?」と考えてみました。
後の映画の内容なども参考に私なりに想像致しました。
二十一は単に三と七を掛けた数字と言うよりも、サイコロの面がそれぞれ方位を表す…「一天地六」「南三北四」「東五西二」の反対両面の和が七であり、且つ全ての面に方位の意が含まれておる様ですので、この「一・六」「三・四」「五・二」の七目掛ける三組の「三七」なのだと思います。
つまり流れ流れて「天地四方」のどこにも身を置く場所が無いほどその身を持ち崩しててしまった。「賽の目崩れ」のはみ出し者だと言っているのではないでしょうか。
三は「三筋の糸の三」と「三組の七目」の「三」の掛け調でもありましょう。
あとに続く「浮世かるたの 浮き沈み」博打の札の裏表、浮き沈みに人生をなぞらえたものてしょう。
昔の演歌の作詞家は都々逸における造詣がかなり深く七五調あるいは七七調での作詞がその殆どで七音の内訳も都々逸の「三・四 四・三 三・四 五」のリズムを踏まえて作詞されているように思えます。
おそらく演歌のリズムが単調にならずに尚且つスムーズに聞こえる様な語彙運びにする事が身に付いていたのではないでしょうか。
演歌には粋で素敵で泣かせるフレーズが沢山あり私の様に「雑俳」を志す者にとっては大変勉強になる
「学校じゃ教せえない」教科書なのです。
末永くご健勝でブロクをお続けになられる事を心よりお祈り申し上げております。
生意気な事を長々と書きなぐり失礼いたしました。」
拙宅ブログまでよくお越しいただきました。
あらためて、一つのフレーズ賽の目くずれをとっても、いろんな角度からの考察、きりこみでこんなにも解釈が広がるとは。
それにしても、「雑俳」という、日本語の持つ妙を得た使いまわしを掘り下げ、裏に隠されている真理を探究するご趣味とは・・・。
まるで、裏心理を探究するポケモンGOか・・・!?
それにしても、考察は尽きなく、賽の目そのものの意義を青竜・朱雀・白虎・玄武をなぞるがごとく、方位に意義を見つけ、しかも崩れに男の流転を導く。
今、藤田まさと先生がご存命なら、通りすがりの人に、座布団1枚というだろう。
しかし、いずれにしても、流転の世界は藤田先生の心の中。
ただ、通りすがりさんが述べるように、「昔の演歌の作詞家は都々逸における造詣がかなり深く」はもちろん、藤田先生の博学は、検証済み。
もう三十数年前、藤田先生がお亡くなりになった後に奥様から家の蔵書を寄贈すると申し出があり、あの当時の私を含めた榛原町職員の数名が、目黒のご自宅に行き、蔵書の記録と梱包を数日かけ行う予定だった。
しかし、藤田氏のお宅の壁という壁には、すべて頑丈な本棚が据え付けられ、ここにびっしり本が納められていた。
その数2、3千冊。
ジャンルはありとあらゆるもの。
冊子から専門書、哲学から美術集など。
それこそ、その蔵書で図書館が成り立つほどの量と質。
結局、1冊1冊記録して搬送などと言っていたら何か月かかるかわからないので、とにかく梱包して、トラックに積みこみ配送することでなんとかしのぐ。
そんな情報に埋め尽くされた藤田先生の頭の中だからこそ、洗練されたひとこと一言の言葉が湧き上がり、人に愛される歌詞が出来上がっていたのだろう。
通りすがりの方、ご教示ありがとうございます。
解釈はいろいろあり、やはり、最後は藤田先生に聞くしかありません(!?)。
でも、残された者が想像を高め議論し合うことは、先生の遺徳に近づくこと。
最後、このブログへのエールをいただきました。
お互いに、切磋琢磨、精進していきましょう。
清水次郎長について調べいたところ、玉川カルテット、東京ボーイズから裏町人生、流転、藤田まさと先生にたどり着きました。流転の歌詞の中の、「浮世かるたの」の、「かるた」について、ある発見をしました。高校3年生の息子の数学の宿題で、ジョロラモ・カルダーノの確率論、「サイコロあそびについて」調べるというものがあり、私も一緒に調べました。
ジョロラモ・カルダーノはイタリアの医師であり数学者であり、人生を賭博に費やした方です。カルダーノを、英語表記はCardano、ポルトガル表記は、Cartanoとなるようです。日本の「かるた」はカードが由来です。流転の「かるたの」は「カルダーノ」のことではないでしょうか。もし、藤田まさと先生がジョロラモ・カルダーノという人物を知っていたらですが。偶然でしょうか。「浮世かるたの浮き沈み」はまさにジョロラモ・カルダーノの人生そのものです。