温故知新No2

静岡県の牧之原市から、盆栽、野球審判、蕎麦打ち、おやじバンド、その他徒然なるままに、ブログしています。

2018 孫と県立吉田公園へ

2018-06-10 06:48:04 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は終日孫のお守り。
とはいっても、いつも時間つぶしに悩む。

ただ、この頃孫は、昆虫類の採集に興味。
玉網をもっては、とにかく大きかろうが、小さいだろうがひたすら捕まえようとする。

今の5歳そこそこの孫に捕まえられるような、鈍感な昆虫はなかなかいない。

それでも、孫は、バッタ類を良くつかまえる。
もっとも、玉網よりは、手でつかますのが関の山。

そうなると、不覚(!?)にも孫の餌食となった昆虫は、しっかりと握りしめられた手の中で、もう息の根を絶え絶えの仮死状態。

この状態で虫かごに入れても、御存命(!?)の確率は、数パーセント。

哀れな虫の命だが、何とかいつかは、その大切さを教えなければ。
まあ、今は、昆虫に対する興味と、せっかく捕まえたバッタや蝶々への観察を大事にしなければと、目をつむる。

しかしこんな生死の摂理を、やっぱ教えなければならない。そして、たった一匹の昆虫の命でも、この世に生まれた生命と気づかせなければならない。

もちろん生命に対する過剰な反応には、配慮しなければならない。
しかし、いつの日からか世間では、尊い命を軽んじるおびただしい事件事故が否応なく目に入ってくる。

正に孫と同じ、たった5歳の子が、その親に対する従順な気持ちを精一杯伝えようとしたにもかかわらず、単に、前夫の子どもという血筋のために、虐げられ、疎遠にさせられ、愛情を受けず息途絶える。

この5歳の子どもの心の揺れ動きというものはいかばかりだったのだろうかと、心痛するが、いかに透視しようとしても、絶体に推し量ることができない感情と行動の究極だったのだろう。
いや、むしろ感情も、ひたむきに書き綴る親へ伝えようとする行動も、その状態、その意義もすらも何もわからないままに、なおかつ親のぬくもりを得る至福の喜びも分からずに日々を過ごす。しかも身体が訳も分からないまま、動かなくなっていく。
痛いところはなかったのか、空腹感はもう通り越していたのか・・・。考える事すら無意味のような切ない気持ちを抱かせる・・・。

こんな事件はもうやめてほしい。
しかし、こんな事件が1件でもあるということは、むしろその温床は確実にあり、かつ表だって見えない懸案は、日本全国影を潜めて進行しているだろう・・・。

この世の中、なんの反省も対策もない、再発防止に歯止めがかからない悲しい状況である。
ただ憂うだけで、なにも行動できないが、少なくとも周りには気を配ることはできる。
孫の友達、近所の子どもたちの楽しそうな様子をみて、何とかこちらも癒され安心する。

今日は、日曜出勤。
さあ今日も頑張っていきましょうと奮い立つしかない!


【写真↓:県立吉田公園の菖蒲は、今ちょうど見ごろ】




【写真↓トンボは必ず同じ行動を取り、先ほど止まったところに来るので待って獲ろうと孫も根気良く待つが、孫の動作で捕まるほどのにぶいトンボは、そうもいません。】




コメント
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