写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

エッセイの素材

2008年10月24日 | エッセイ・本・映画・音楽・絵画
 毎日新聞西部本社の各地方版には「はがき随筆」といって、250字の読者投稿のエッセイ欄がある。

 鹿児島県のある女性が「はがき随筆・鹿児島」というブログで、鹿児島県のはがき随筆を、毎日こまめに転載してくれている。

 掲載された作品の中から、毎月選者が優秀作品を講評・表彰してくれる。9月度の講評の中で、選者である日本近代文学会評議員・鹿児島大名誉教授の石田忠彦さんが勉強になることを書いていた。

 「はがき随筆は252文字のミニエッセイです。このところ随筆の素材を自分から探そうとなさる態度がうかがわれます。文章の素材は、自然に向こうからやってくることはあまりありません。知性と感性の積極的な働きかけが必要です。表現してやるぞという姿勢だと、素材も表現してもらいにやってきます」と書いてある。

 仕事でも義務でもないブログにしても投稿するはがき随筆にしても、書くためにはそこに何か素材がないといけない。

 しかし、素材は道路にお金が落ちていないように、ただ歩いていればそこいらに転がっているわけではない。 

 「知性と感性の積極的な働き方が必要だ」ということはよく理解できる。ただ一つ残念なことは、肝心な知性と感性に自信がないことである。

 かくなる上は、なけなしの知性と少々錆びた感性で眼だけは大きく見開き、表現してやるぞという姿勢を示せば、素材が表現してもらいにやって来ると信じるしかない。

 「書くことがない」とはよく使う言い訳であるが、本当は「知性と感性がない」と言わなければいけなかったことに気がつく。分かっているけど今さらどうしようもないことではある。

 素材を探す以前に、知性と感性の磨き方をまず学ばなければエッセイは書けない。どうも私はそこの所を跳ばしてきたようである。 
 (写真は、素材ならぬ惣菜探し中の「アオサギ」)