第9回まつたけ十字軍運動は、24日の降水確率は低いようなので、予定通り
朝10時30分、岩倉の現地もしくは京都バス「村松集会所前」集合です.
午前は読売新聞社系列の「読売・ザKANSAI」の取材.昼からはKBS京都の「京都!ちゃちゃちゃつ」の取材があります.ご協力のほど願いあげます.写真は岩倉での作業風景です.
まつたけ十字軍運動 代表
吉村 文彦
「マツタケは栽培できる」(8回シリーズ)と題して、もちろん里山林の保全をも提唱する「まつたけ十字軍運動」だから、当然、「まつたけは、林地栽培が出来る」ことを意味する.
この上に立って、専業のまつたけ栽培林家を育成する方法を労働力や資金面からも真剣に考えていきたい.このことが進めば、里山林の保全問題は、所謂、民活方式で飛躍的に前進することと思われる.
皆さんのあらゆる支援をお願いしたい.
まつたけ十字軍運動 代表
吉村 文彦
マツタケは栽培できる(1)
マツタケとホストとの共生関係
マツタケはカビの仲間で、カビは、その生活様式などから腐生性や菌根性や病原性のものに分けることができる.マツタケは腐生性のカビから進化したと考えられ、生物遺体を分解する能力を遺伝的に欠いた菌根菌の仲間である.
菌根菌は生きた植物(宿主あるいは寄主)の1mm未満の細根に感染し、光合成産物である糖類を宿主から摂取する.逆に宿主は菌根を介して土壌中の水やミネラル類を受け取る.
マツタケは菌根になると、抗生能のある物質を分泌し土壌微生物の攻撃から自らや根を守る.アカマツの細根を菌糸マットで覆い根の乾燥を防いでいる.
マツタケにとってはアカマツのようなホストが、アカマツにとってはマツタケのような菌根菌が、それぞれの生物が生き残るために獲得した戦略的パートナーなのである.
アカマツ林を構成する樹種間に菌根菌の菌糸マットが仲立ちしたネットワークが林内に形成され「情報の伝達」があることが最近わかってきた.菌根菌は,同種あるいは異種植物同士の物質の移動の仲立ちもする.
マツタケの宿主は日本においては、アカマツ、クロマツ、ハイマツ、エゾマツ、ツガ,コメツガなどであるが、台湾ではタイワンアカマツやタイワンツガ、朝鮮半島ではアカマツやチョウセンゴヨウ、アメリカではダグラスファーやツガの仲間、コントルタマツ、地中海沿岸ではレバノンスギである.そのほか、広葉樹をホストにするマツタケが日本にもある.
日本で、マツタケの生産量の多い宿主はアカマツであり、日本のマツタケはアカマツの存在抜きには考えにくい.
人の生活がアカマツ林を育てマツタケを発生させた
マツタケがいつから日本に発生していたのかはっきりしないが、キノコについては、日本書紀(720年成立)に茸(タケ、クサビラ)のことが記されている.これがマツタケかヒラタケか知るよしがないといえる.
花粉分析によると、日本にマツ属の花粉が急増した時期は、500年頃と考えられている(長野県野尻湖、大阪府羽曳野市(1)).奈良時代になると、照葉樹林での人間の活動が激しく、アカマツ林が増え始めたようである.
マツタケは内陸の山の尾根筋に侵入してきたアカマツ林に登場し、珍重されている様子が万葉集にうかがえる(高松のこの峰もせに笠立ててみち盛りたる秋の香のよさ.万葉集2233 巻第十秋 雑歌).
平安時代になると、飛躍的に人口が増加し、住居や道具のための材(5)や毎日の燃料や肥料などの需要も飛躍的に多くなった.そのために、平安京周辺の原生林が破壊されアカマツが都周辺にも登場し、マツタケも増えてきた(都まつたけ).
当時の平安京周辺の山には、ほとんど木がなく、公家達も入浴がこの上ない贅沢であった.平安~室町時代になると、天皇や公家がマツタケ狩りを楽しみ、盛んに贈答しあっている(三条実房 愚昧記; 藤原定家 明月記; 近衛政家 後法興院日記).
徒然草(吉田兼好、14世紀の初め)に、「きじ、松茸などは御湯殿の上にかかりたるもくるしからず、その外は心うきことなり」とあって、マツタケが高級食材であることがうかがえる.
秀吉も相当マツタケ狩りが好きだったようである(翁草).江戸時代にも、“下郎の口にはかなわない”しろものであったが、京都の錦小路にマツタケの市がたち、町衆が買っていたようである(本朝文鑑、支考編).与謝蕪村に言わせると “松茸や食ふにもおしい遣るもおし”いものであったようだ.
時代が下って、昭和10-20年代は、マツタケが「蹴飛ばすほど生えた」とか言われたが、昭和16年(1941)の12,222tの生産量を最高に、昭和35年(1960)頃からその生産量が減少し、最近はその250分の1に激減している.
(続く)