まつたけ山復活させ隊運動ニュース

 松茸は奈良時代から珍重されてきたが、絶滅が心配される.松茸山づくりは里山復活の近道であり里山の再生は松茸復活に繋がる.

マツタケは、このように、昔から好まれていた

2005年06月23日 | マツタケの生理生態

マ ツ タ ケ の 食 文 化 考-1-

マツタケの産地は、日本、朝鮮半島、サハリン、中国、台湾(玉山、八通関)、ブータン、トルコ、モロッコ、アルジェリア、スペイン、フランス(ニース、19C)、スゥエーデン、フィンランド、北米大陸など.
マツタケを好む民族は日本人.やはりマツタケの産地である韓国では慶州(Kyongju)の人はマツタケを好むが、他は興味を示さない.中国のある地域では、香りが合わないらしく皮を剥いで食べている.ヨーロッパ・アメリカ人、アフリカ人も香りを嫌う.
しかし、今は、各地の日系人などが松茸に特別な気持を抱いて探し求めたことによって、結構現地の人たちも食べる人が増えているのも事実である.

日本では、まつ-たけと言うように松と茸という両生物をセットで考えている.(英語圏ではMatsutake Fungi とかMatsutake Mushroomと表現:学名はTricholoma matsutake (S. Ito et Imai) Sing.
何回で終了にになるか検討してないので分からないが、兎に角、前に進もう!
 

奈良時代になると、万葉集(8世紀)に、題は詠芳(2233)で、
「高松のこの峯も背(迫)に笠立てて満ち盛りたる秋の香の良さ」
とマツタケの生態を詠んだと思われる歌がある.
本居宣長は題は詠芳ではなく、詠茸の間違いという.この歌はマツタケの生態を詠んだという説(窪田空穂、鴻巣盛広、阿蘇瑞枝、沢潟久孝、小清水卓司)といやこれは「芳」すなわち蘭でフジバカマを詠んだもの(土屋文明)という2説がある.
また、大和の山は古い地質でマツタケの適地ではないのでマツタケと結論付けられない(小幡弥太郎)という説もある.しかし、マツタケの生態から見て、大和の国が必ずしもマツタケ不適地とはいえないし、開きのマツタケが数本尾根筋に生えることはアカマツ若齢林ではあることである.

平安時代になると、古今和歌集(905年)卷第5 には、素姓法師が北山に僧正遍正と茸狩りにまかれりけるによめる
「紅葉は袖にこきいれてもていでなん 秋はかぎりと見ん人のため」

拾遺和歌集(1005年)巻第7
「あしびきの山下水に濡れにけりその火先づ焚(松茸)衣焙らん」
「いとえどもつらき形見を見るときは先づ猛(松茸)からぬ音こそ泣かるれ」

愚昧記(三条実房の日記:1177年)
「9月26日、西山にある光明寺へマツタケ狩りに行って、山上の竹の柱のあずまやで酒を飲んだ」とある.

明月記(藤原定家:1206年)
「9月3日、御所へ参内すると、天皇はマツタケ山へお出かけになって、お帰りは夜更けである」とある.

鎌倉・室町時代の公家、僧の日記を見ると、マツタケ狩りを楽しみ、互いに贈りあっている(極めてワイロ性が高いという).松茸を戴いたから飲もうと誘われると、飯を持参で駆けつけている.朝から夜まで飲んだと言うような日記が多い.当時の習慣らしい.

 もう、この頃には、マツタケは高級食材として認知されていたようである.
徒然草(吉田兼好:1331年)、第118段に「鯉ばかりこそ、御前にてきらるるものなれば、やんごとなき魚なり.雉、松茸などは、御湯殿の上にかかりたるも苦しからず」.
次回に続く

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