まつたけ山復活させ隊運動ニュース

 松茸は奈良時代から珍重されてきたが、絶滅が心配される.松茸山づくりは里山復活の近道であり里山の再生は松茸復活に繋がる.

まつたけ山復活させ隊 NEWSLETTER 900

2014年04月08日 |  マツタケの林地栽培 

香川山には、2本の山桜があるが、1本は満開、残りは、こんな様子だ(写真1)。タラノメも大きく空に突き出ている(2)。里山林を明るくするとツツジ科の植物が目立つようになる。コバノミツバツツジが美しい(3)。畑には、ムスカリやチューリップといった花が咲き誇っていた(4,5)。ここでは、茶の新芽は未だ伸びていない。前回は、春を寿ぐ昼食であった(6)。
1) 2) 3) 4) 5) 6)

写真は左クリックで拡大されますが、4は向きを修正してありますが、ここではこんな向きです。拡大すると正しい向きになります。ごめんなさい! 

 

 4月11日(金)は、まつたけ山復活させ隊第434回活動日です.
午前10時に京都市左京区岩倉 村松 香川山(自称:下記の§活動拠点へのアクセスを御参照下さい)にお集まり下さい.本日の活動の様子は、榎本 輝彦さんが報告します.
 
 
マツタケ山づくりの話10
 
  前回は、マツタケの生息地、アカマツ林(里山林)の減少要因は、社会のいろんなシステムの近代化で人が不要と切り捨てたことによるが、自然保全の高まりの中にあっても、残念ながら取り残されているのが里山再生である。里山再生は森林ボランティアにゆだねられているが、それには限界があり、課題を克服するには政治がしっかりする必要があることなどを書いてきた。

今回も、高文研出版の「まつたけやま復活させ隊の仲間たち」を引用しながら、マツタケのパートナーであるアカマツ林(里山林)について書き進めよう!

■マツノザイセンチュウ病が事態悪化に拍車

 アカマツとマツタケの相利共生関係が維持できなくなると、いつからかは定かでなくとも、長い間そんな関係を維持してきたのだから、アカマツにも「問題なし」とはいかない運命が待っている。栄養豊かな林内土壌では、アカマツよりも広葉樹など他の種類の樹木のほうが競争力が強く優勢になり、次第にアカマツの樹勢は弱って勢力を失っていく。

すると、病害虫などに対するアカマツの抵抗力が落ちてきて枯損率が高まるものと思われる。これは、マツタケのような菌根性キノコの生活が成り立たない土壌では、アカマツも健全な生活が営めないということなのか、あるいは両者の相利共生関係にはまだ解明されていない機能があるからなのかもしれない。

 遷移林といわれるようにアカマツ林は、人が手を入れなければそのままずっとアカマツ林として維持されることはない。放置すればアカマツ林は必ずなくなり、もうそれ以上山の樹種が変化しない極相林になってしまう。もちろん岩場のようなところには、マツ科植物が極相林なのであるが。マツノザイセンチュウ病による枯損は、その遷移するスピードを速めている現象であり、被害が全国各地に広がっている。里山問題の深刻化が加速しているということだ。

 マツノザイセンチュウの被害は1905年(明治38年)に、長崎県で最初に確認された。今日のアカマツ大量枯損の始まりである。米国から輸入した木材の中に体長わずか1㍉ 足らずの線虫が潜んでいたのだ。後に、マツノザイセンチュウという名をもらう新種の害虫の侵入だった。

 この外来害虫の侵入と、その後の蔓延につながる「巧妙な出来事」について、二井一禎さんに話を聞いた。今、マツノザイセンチュウを媒介している運び屋(伝播昆虫)は体長2.5㌢内外の日本産のマツノマダラカミキリだが、最初の線虫はこれと同属で別種の米国のカミキリ虫と共に材に潜んで入ってきたと思われる。

 線虫を体内に持ったそのカミキリ虫が輸入材を抜け出して日本のマツ(おそらく海岸のクロマツ)に飛来し、そのマツを摂食した時に線虫が材内に侵入し増殖してマツを枯らし、さらにその枯れたマツに飛来した日本のマツノマダラカミキリが産卵し、翌年羽化する際に新たな運び屋となって線虫を運び出した。米国の運び屋から日本の運び屋に伝播昆虫の「乗り換え」が起こったことによって、この害虫は広がっていく手段を獲得したのだ。

 以来109年、被害は年々日本列島を北上し、日本海側ではすでに青森県に到達している恐れもある。太平洋側では、岩手県最北部に近いところで被害が発見された。要観察となっている。マツノマダラカミキリの蛹とセンチュウを持ったマツ材の輸送が被害を拡大しているといわれている。また、急斜面の上部にあるため処理の難しいザイセンチュウ病枯損木の放置が新たな感染を生んでいる。

 この被害で、京都市内でも周りの北山、東山、西山の景色が変わってきたことは、皆さんもご存じの通りである。茶色く枯死したアカマツの目立つ山並みは、やがてヒノキやスギかシイ林に代わるだろう。「京」の景観にとっても大きなマイナスだ。それだけではない。京都の伝統的行事であるお盆の五山の送り火の薪はアカマツを用いているが、このままでは、その薪の確保が難しくなってくるのではないか。

 まつたけ山復活させ隊(まつたけ十字軍)運動は、アカマツの薪を確保するためにもアカマツ林再生活動を主導している。まつたけ産地といわれる地域でのアカマツの枯損被害は、まつたけ産業、秋を味わう食文化にとっては致命的である。外国産「まつたけ」では代替できないところである。香、形が、どことなく違うのである。

 里山再生・マツタケ山再生は生物多様性を維持するうえで必要である。とにかく忘れてならないのは、人間の活動(生活)も里山という生態系に組み込まれ、一定の役割を果たしつつ営々と営まれてきた歴史があるということ。その結果、里山は多様な生き物が棲む豊かな生態系になったのだ。

 この人の活動と役割が途絶えた時代に、元の豊かな里山の復活をめざして全くの素人である市民たちが決して絶望せず、腰を据え、楽しみながら積極的にかかわっている。
それが私たちの「まつたけ十字軍運動」であり、まつたけ山復活させ隊だ。

■激減を続ける国産まつたけ

かつてのわずか115分の1以下に!
 農林水産省の外局・林野庁のまつたけ生産量についての統計は1905年(明治38年)から始まるが、明治以降、それまでハゲ山だったところに治山治水工事が行われるようになるとアカマツ林が増加をみせ、それにつれてまつたけの生産量も増えている。

 1905年は3015㌧、1900年代は年間平均2726㌧だったが、1910年代(1910-1919)は3863㌧、1920年代には5531㌧、1930年代は最高で7582㌧の生産量を記録している。1941年には単年度で史上最高1万2222㌧になっている。

 戦後になると、戦災復興のため木材の需要が高まり、1950年にはアカマツがパルプ材として用いられるようになった。チェーンソーがアメリカから導入されると木材需要増大と相俟って、造林の拡大が加速し、今では日本の森林の4割が人工林になっている。これによりアカマツ林は減少、つまりマツタケの生息地の減少は、1940年代の年間平均生産量5806㌧が、1950年代には4985㌧と大きく落ち込む結果となって現れている。

 高度経済成長期に突入後、里山放置による質の低下はとどまることはなく、しかも急速に進んだ。これは生息地(面積)の減少と異なり、ボクシングのボディブローのようにじわじわと時の経過とともに生産減少に効いてきた。開発によるさらなるアカマツ林面積減少も止まらず、両者相まって60年代後半になると生産量は一気に落ち込んでしまい、年2000㌧を上回ることは最早なくなってしまった。70年代には1000㌧台を切って722㌧となり、以後減少の一途をたどってきた。

 人口は増え、さらなる経済成長が続き、紙の需要増による樹木の伐採、ゴルフ場や宅地造成などの開発は止むことを知らずという状態でマツタケの生息地の減少は進み、加えて放棄アカマツ林の劣化の程度はすざましく、1990年代には年平均が267㌧となった。2000年代には66㌧と、1930年代の0.9%という大激減である。

発生時期の秋の暑さに弱いマツタケ!
 21世紀になると、今度は地球規模の気候変動がマツタケの生育に一層のダメージを与えるようになってきた。マツタケの発生期に、京都でいうと10月の第2週頃に「えっ、まだ夏」とか、「激しい残暑のぶり返しだ」といったことが常態化しているように思える。

 これは、マツタケの子実体(きのこ)発生や成長の条件として大ピンチ。夏の終わりまで順調にマツタケのシロは育ち、秋の朝の凛とした冷え込みが訪れる頃、地下のシロはきのこの芽(子実体原基)を作る。とにかく夏が終わらないことには、低温による刺激がないため原基ができないのだ。

 この温暖化の原因はともかく、気温上昇に伴って地温も確かに上昇する。そして、さらに悪いことには一度秋の冷え込みが訪れた後に再び厳しい残暑がやってくることが多くなった。しかも、気温が高いと概ね天気が良い、雨もない。マツタケの生長には、雨が必要である。

 すると、最初の冷え込みで作られた子実体原基は大きくなれずに土の中で腐り、そこに栄養を送っていた菌根も消耗してしまう。その後、たとえ気温が下がって再びマツタケ発生の好条件に恵まれても、シロの先端部の子実体原基をつくった部分にはすでに元気な菌根がほとんど残っていないから、もう新たなきのこの芽はできない。これがマツタケ発生の高温障害である。

 秋にキノコの発生が終わって冬になるまでの間、もうアカマツの細根は伸びないが、シロの先端部の子実体原基の形成に関与しない菌根は弱ってはいるものの休眠するまでの間に新しい菌糸を伸ばす。その菌糸が、翌年の春先になって、アカマツの細根が近くまで伸びてくると、それに感染して新しい菌根を作る。菌糸はそれまで生き残り、ジッと耐えながら新たな出合いを待っている。シロはそうやって成長し、広がっていくのだ。

 発生期の気候変動は、マツタケ主産地の北上を招き、広島県、岡山県、兵庫県、京都府など西日本にあったマツタケの主産地の多くは今、長野県高地に移ったように見える。これからと期待される岩手など東北の産地でも残暑のぶり返しは発生量の低下や凶作を招いている。  続く  

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ブログ左欄ブックマークのNIKONオンラインギャラリーを左クリックしてギャラりーに入り、活動風景を御覧ください.
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§活動場所:京都市左京区岩倉村松町138-20 香川山 (京都バス停留所「岩倉村松」から北東へ450m徒歩6分) 
 活動開始は午前10時頃から、終わりは午後4時頃.自由参加可能 ただしコアータイム昼食時は必ず参加のこと.
アクセス:
京都バスの「岩倉 村松行き」に乗車.
このバスに乗車するには、
ア)JR京都駅七条口から(バス停「C6」番、所要時間約60分)
イ)阪急京都線四条河原町駅から(四条河原町交差点河原町通り北へ上ル東側)40分
ウ)京阪本線出町柳駅から(加茂大橋東詰め北へ上ル西側、約30分)
エ)京都地下鉄烏丸線国際会館から(3番出口からバスターミナル1番)約15分
(地下鉄烏丸線はJR京都駅、烏丸四条、烏丸御池、国際会館などに停車)

§参加費は無料;ただし、消耗品費は皆さんの浄財カンパで成り立つ、或いは必要に応じて徴收.メンバー参加者には、現在、食材費+消耗品費として400円を徴収.登録外参加者・見学者などは要500円(施設利用代などを含む).

§参加や見学希望の方は、ブログ画面左にあるカテゴリーから「まつたけ山復活させ隊とは」を左クリックでご覧下さる様にお願いします.
内容
まつたけ山復活させ隊の活動について 
§1 我々のまつたけ山再生運動とは? 
§2 まつたけ山復活させ隊に参加するには 
§3 私達のマツタケ山造り(作業方法の特徴)
§4 こんな活動をしています! 
§5 今年の予定と目標?

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まつたけ山復活させ隊活動

予定日  2014年4月~6月
回  開催日  報告担当者  男厨シェフ

434 4月11日 金 榎本
435 4月19日 土 宮崎
436 4月25日 金 三輪
437 5月03日 土 池内   内田
438 5月09日 金 内田
439 5月17日 土 榎本
440 5月23日 金 三輪
441 5月31日 土 宮崎
442 6月06日 金 内田
443 6月14日 土 池内   川崎
444 6月20日 金 榎本
445 6月28日 土 三輪

    11月7日(土)  京都造形芸術大学 環境学受講生 マツタケ山づくり体験 
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§カンパありがとう!  

§カンパお願い: 運営は皆さんのカンパで成り立っています!
         みやこ松茸・里山復活! 京都の文化・景観を守るために、里山林整備に努力しています.
   
カンパの振込先
 氏名:  まつたけ十字軍 代表 吉村文彦
 銀行名: 京都銀行 山科中央支店 口座No. 普通預金 3698173

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§主 催
まつたけ十字軍運動
代表 吉村 文彦(マツタケ生態学)
京都市山科区御陵岡ノ西町38-27
090-6227-4305 redpinemushroom@gmail.com

香川理化学研究所
代表 香川 晴男

§共 催
京都大学マツタケ研究会
代表 大石 高典

コメント
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