スペインへ行ったときに、世界の「美術館事情」の話になった。
美術館が「略奪品」の展示か、「コレクション」の展示か、
それとも、「自国の作品」の展示か。
「ロシアの「エルミタージュ美術館」は、
財力にものを言わせて、かき集めた、
『コレクション』を展示する美術館だ」
と、スペイン人は言う。
「よその国の美術館は、『略奪品』の展示が多い。
研究・調査、保存と称して、持ち帰ったものだ。
イギリスの『大英博物館』にしても、
フランスの『ルーブル美術館』にしても、
ドイツの『ペルガモン博物館』にしても」
「それか、財力にものをいわせて、かき集めた
『コレクション』を展示する美術館だ。
ロシアの『エルミタージュ美術館』やアメリカの美術館だ」
ここに、「エルミタージュ美術館」の名前が出てきた。
「スペイン以外で、『自国の作品』を展示しているのは、
フランスの印象派を集めた『オルセー美術館』、
モネの睡蓮の壁画がある『オランジュリー美術館』、
イタリアの『ウフィツィ美術館』、『ヴァチカン美術館』、
オランダの『アムステルダム美術館』、『ゴッホ美術館』だ」
「スペインは『天才』、『鬼才』をゴロゴロ生むところだ。
バルセロナからは、
建築家のガウディ、芸術家のダリ、ミロが出ている。
ピカソはバルセロナの美術学校で学んだ。
天才の作品や美術館が、バルセロナと近郊にある。
『ピカソ美術館』や『ミロ美術館』。
それに、ガウディの「サクラダ・ファミリア」は世界遺産になっている」
「ミロ美術館」の屋上。バルセロナ。
ガウディの「サクラダ・ファミリア」。バルセロナ。
このスペイン人はカタルニア地方出身で、カタルーニャン(カタルーニャ人)。
バルセロナへの思いがことのほか強い。しかし、スペインを代表して、
話をするときには、ライバルであるマドリッドについても、
誇りをもって話をする。
「マドリッドからは、
2人の宮廷画家ベラスケスとゴヤがいる。
ほかに、エル・グレコ(ギリシャ出身)が出ている。
彼らの作品は、マドリッドの『プラド美術館』にある。
ピカソの『ゲルニカ』もマドリッドにある」。
「プラド美術館」。マドリッド。
手前はゴヤの像。
ピカソの「ゲルニカ」。
スペイン人が話したこれらの世界の美術館の多くは、訪れることができている。
しかし、ロシアの「エルミタージュ美術館」は、残っていた。
2013年8月のロシア旅行では、財力にものを言わせて、
かき集めた「コレクション」を展示するという、
「エルミタージュ美術館」を、ぜひ見たい。サンクト・ペテルブルク。
「エルミタージュ美術館」では、
アンリ・マティスに注目した。
フランスの画家、アンリ・マティスの傑作、
「ダンス」、「音楽」、「赤い部屋」が、どうして、
「エルミタージュ美術館」にあるのだろうか?
マティスの祖国、フランスの「ルーブル美術館」とか、
「オルセー美術館」ではなくて。
そして、実物は、どんなだろうか?
それに、「エルミタージュ美術館」に、
マティスの傑作がある、わけを知りたい。
「ダンス」。
壁を占める大作で、5人の踊り手は躍動していた。
「ダンス」の右の壁には「静物スペイン」、「ダンスのある静物」、
そして、「赤い部屋」があった。
「赤い部屋」の右には、「赤いチェストの上のピンクの小像と水差し」、
「静物セヴィリア」が続き、そして、右の壁は「音楽」になる。
「ダンス」と「音楽」は、向かい合っていた。
マティスの傑作、「ダンス」、「音楽」、「赤い部屋」を、
一同に見ることができた。ありがたい。
貸し出し中で、欠けていることはなかった。
マティスの作品の展示は、「エルミタージュ美術館」の3階で、
奥まったところに、3部屋を占めていた。
「ニンフとサテュロス」、「会話」、「画家の家族」もあった。
「ニンフとサテュロス」。
「会話」。
左は「ベランダの花」。
「画家の家族」。
マティスの傑作が「エルミタージュ美術館」にある。
マティスだけでも「マティス美術館」になる。
これだけマティスの絵を見ることができるには、わけがあるだろう?
マティスの傑作が「エルミタージュ美術館」にある、わけは、
ロシア人の繊維業者セルゲイ・シチューキンにあった。
「マティス 知られざる生涯」、
ヒラリー・スパーリング著、白水社発行で、
マティスと大富豪シチューキンの関係を知ることできる。
ロシア人のコレクター、シチューキンのコレクションは、
マティスの前に、印象派のマネとルノワールだった。
それから、ゴーギャンに惚れ込んでいた。
マティスは、サロンに「帽子の女」を出品した(1905年)。
「帽子の女」。
「マティス 知られざる生涯」、
ヒラリー・スパーリング著、白水社発行から。
「帽子の女」がサロンに出品されると、酷評された。
ひどい手抜きだ、乱暴な落書きだ、絵の具を塗りたくったものだ。
「野獣」(フォーヴ)だ、と呼ばれて人びとから、あざけりを受け、
以後、「野獣派」(フォービズム)と呼ばれるゆえんとなった。
しかし、ピカソはちがっていた。
「帽子の女」に驚き、
「生きる歓び」に衝撃を受けた。
「マティス 知られざる生涯」から。
この「生きる歓び」に、「ダンス」の予兆があることを、あとで説明する。
ピカソは、
「自分のこれまでの最も野心的な作品さえ、
弱々しいものに思え、それどころか、二番煎じのように感じられた」
ロシアの大富豪、シチューキンは、マティスに興味を持った。
そして、アトリエを訪問した。1906年、マティスが36歳、
シチューキン56歳だった。
この訪問がきっかけで、2人の人生が大きく変わった。
それからの10年、マティスは、
シチューキンから、
大きな経済援助を得るとともに、
創作の勇気と強い野心を与えられた。
マティスは、シチューキンをつぎのように言っている。
「画期的だと自負している作品を、
シチューキンは直感的に選びとる才能がある」
「赤い部屋」は、シチューキンが買った。
非常識で、幼稚で、奇怪だと評されたものだったが。
「ニンフとサテュロス」も、シチューキンが買った。
レイプをしようと、襲いかかろうとする様は、
不道徳と評されたものだったが。
「画家の家族」も「会話」も、シチューキンが買った。
あとで「プーシキン美術館」に行くが、
「金魚」も、シチューキンが買った。
結局シチューキンは、37点のマティスの絵を買うことになる。
「モロッコのカフェ」。
「マティス 知られざる生涯」から。
「エルミタージュ美術館」で探したが、見つからなかった。
この「モロッコのカフェ」を見て、
シチューキンはその場で買い上げた。そして、
「化粧室に掛けて、毎日少なくとも1時間は1人で、
眺めるようにした。その結果、自分のコレクションのなかで、
いちばん好きになった」、という。
マティスは、
この「モロッコのカフェ」で、
現実を見る目のレベルが一段上がった。
それは、同時代の人びとにはついていけない領域だった。
未来に飛躍するには、画家とコレクターが手に手をとって、
おたがいに勇気と想像力が必要だった。
マティスの傑作、「ダンス」と「音楽」を、
さすがのシチューキンも、買うのをためらった。
シチューキンは、
邸宅の1階から2階への階段を飾る、2点の大作がほしかった。
「ダンス」と「音楽」の構想は、2人で昼食をとった1908年に生まれた。
マティスは、
「ダンス」のインスピレーションを、カタルーニャから得た。
スペインとの国境で、地中海に面した、カタルーニャの色濃い港町、
コリウールに滞在した。浜辺で、カタルーニャンが興じたダンスから、
思いついた。
マティスの「ダンス」が生まれたいきさつが、
カタルーニャのダンスにあったことを、
「美術館事情」の話をしたカタルーニャンに話せば、
「そうなんだよ! カタルーニャは天才を生むところなんだ」
と、喜びそうだ。
「生きる歓び」1906年、を見ると、
浜辺の中央奥で、6人の女性がダンスをしている。
コリウールでの体験が、「ダンス」に昇華したようだ。
ダンスに興じるカタルーニャンを見たことがある。
お祭り「サンタ・エウラリア」。2月、バルセロナで。
「ヒガンテ」 巨人の人形が、バルセロナの街を練り歩く。
カテドラルの広場では、バンド演奏が始まると、上着をとり、
荷物を真ん中にして、手を取ってダンスをする老若男女の輪が、
あちこちにできた。そして、楽しそうに踊る「サルダーナ」は、
マティスがインスピレーションを得たダンスを見ているようではないか。
「ダンス」と「音楽」は2年かかって、1910年にできた。
「ダンス」と「音楽」をサロンに出品すると、酷評された。
強引だ、攻撃的だ、グロテスクだ。
シチューキンはサロン出品の1週間前にパリに来た。
そして、「ダンス」と「音楽」の受け取りを拒否して、
モスクワに帰った。
しかし、2日後、シチューキンは、
「やはり買うことにした」
と、電報を打ってきた。
しかも、高額を提示した。つづいて、
一瞬、心が揺らいだことを恥じる手紙を送った。
モスクワで、「ダンス」と「音楽」を受け取ると、
シチューキンは、マティスに手紙を送った。
「世間はきみを受け入れないだろう」
「だが、未来はきみのものだ」
モスクワの「プーシキン美術館」にも、マティスの絵があった。
「プーシキン美術館」の入口の右上の壁には「金魚」が掲げられていた。
「金魚」は、「プーシキン美術館」の目玉商品であることがわかる。
この「金魚」は、北アフリカのサハラ砂漠の北端にあるオアシス都市、
ビスクラ (アルジェリア)に旅したときに見た金魚の印象が、作品になった。
プーシキン美術館では、「金魚」のほかに、
「ダンスのある『ナスタチウム』」、
「タンバリンを持つスペインの踊子」、
そして、「薔薇色のアトリエ」を見た。
マティスだろう? と、写真を撮って、あとで調べた。「薔薇色のアトリエ」だった。
ロシアの繊維業者のイワン・モロゾフは、
ルノワール、セザンヌ、ゴーギャン、ボナール、ピカソをコレクションした。
同じく、ロシアの繊維業者のセルゲイ・シチューキンは、
ルノワール、セザンヌ、ゴーギャン、ピカソ、そして、マティスを中心に、
コレクションした。ロシア革命で、これらのコレクションは接収されて、
国家のものになり、シチューキンはフランスに亡命した。
コレクションは、「エルミタージュ美術館」と、
「プーシキン美術館」に分けて移管された。
ソ連時代は、「ブルジョア的だ」と、
公開されなかった。
画家マティスとコレクター、シチューキンとが、
手に手をとって、勇気と想像力で傑作を生んできた。
マティスは、人びとへの受けを狙うのではなく、
いばらの道である、その先を狙って創造をしていた。
マティスは旅をして、インスピレーションを得ていた。
カタルーニャの色濃いコリウール、モロッコ、アルジェリア。
マティスの葛藤と創造に、シチューキンが味方した。
サンクト・ペテルブルクの「エルミタージュ美術館」と、
モスクワの「プーシキン美術館」へ行くと、
マティスの傑作に逢える。
コレクターが、財力にものを言わせて、かき集めた、
「コレクション」を展示する「美術館」ではなく、
マティスとシチューキンによる勇気と野心の、
傑作を展示する「美術館」だった。
美術館が「略奪品」の展示か、「コレクション」の展示か、
それとも、「自国の作品」の展示か。
「ロシアの「エルミタージュ美術館」は、
財力にものを言わせて、かき集めた、
『コレクション』を展示する美術館だ」
と、スペイン人は言う。
「よその国の美術館は、『略奪品』の展示が多い。
研究・調査、保存と称して、持ち帰ったものだ。
イギリスの『大英博物館』にしても、
フランスの『ルーブル美術館』にしても、
ドイツの『ペルガモン博物館』にしても」
「それか、財力にものをいわせて、かき集めた
『コレクション』を展示する美術館だ。
ロシアの『エルミタージュ美術館』やアメリカの美術館だ」
ここに、「エルミタージュ美術館」の名前が出てきた。
「スペイン以外で、『自国の作品』を展示しているのは、
フランスの印象派を集めた『オルセー美術館』、
モネの睡蓮の壁画がある『オランジュリー美術館』、
イタリアの『ウフィツィ美術館』、『ヴァチカン美術館』、
オランダの『アムステルダム美術館』、『ゴッホ美術館』だ」
「スペインは『天才』、『鬼才』をゴロゴロ生むところだ。
バルセロナからは、
建築家のガウディ、芸術家のダリ、ミロが出ている。
ピカソはバルセロナの美術学校で学んだ。
天才の作品や美術館が、バルセロナと近郊にある。
『ピカソ美術館』や『ミロ美術館』。
それに、ガウディの「サクラダ・ファミリア」は世界遺産になっている」
「ミロ美術館」の屋上。バルセロナ。
ガウディの「サクラダ・ファミリア」。バルセロナ。
このスペイン人はカタルニア地方出身で、カタルーニャン(カタルーニャ人)。
バルセロナへの思いがことのほか強い。しかし、スペインを代表して、
話をするときには、ライバルであるマドリッドについても、
誇りをもって話をする。
「マドリッドからは、
2人の宮廷画家ベラスケスとゴヤがいる。
ほかに、エル・グレコ(ギリシャ出身)が出ている。
彼らの作品は、マドリッドの『プラド美術館』にある。
ピカソの『ゲルニカ』もマドリッドにある」。
「プラド美術館」。マドリッド。
手前はゴヤの像。
ピカソの「ゲルニカ」。
スペイン人が話したこれらの世界の美術館の多くは、訪れることができている。
しかし、ロシアの「エルミタージュ美術館」は、残っていた。
2013年8月のロシア旅行では、財力にものを言わせて、
かき集めた「コレクション」を展示するという、
「エルミタージュ美術館」を、ぜひ見たい。サンクト・ペテルブルク。
「エルミタージュ美術館」では、
アンリ・マティスに注目した。
フランスの画家、アンリ・マティスの傑作、
「ダンス」、「音楽」、「赤い部屋」が、どうして、
「エルミタージュ美術館」にあるのだろうか?
マティスの祖国、フランスの「ルーブル美術館」とか、
「オルセー美術館」ではなくて。
そして、実物は、どんなだろうか?
それに、「エルミタージュ美術館」に、
マティスの傑作がある、わけを知りたい。
「ダンス」。
壁を占める大作で、5人の踊り手は躍動していた。
「ダンス」の右の壁には「静物スペイン」、「ダンスのある静物」、
そして、「赤い部屋」があった。
「赤い部屋」の右には、「赤いチェストの上のピンクの小像と水差し」、
「静物セヴィリア」が続き、そして、右の壁は「音楽」になる。
「ダンス」と「音楽」は、向かい合っていた。
マティスの傑作、「ダンス」、「音楽」、「赤い部屋」を、
一同に見ることができた。ありがたい。
貸し出し中で、欠けていることはなかった。
マティスの作品の展示は、「エルミタージュ美術館」の3階で、
奥まったところに、3部屋を占めていた。
「ニンフとサテュロス」、「会話」、「画家の家族」もあった。
「ニンフとサテュロス」。
「会話」。
左は「ベランダの花」。
「画家の家族」。
マティスの傑作が「エルミタージュ美術館」にある。
マティスだけでも「マティス美術館」になる。
これだけマティスの絵を見ることができるには、わけがあるだろう?
マティスの傑作が「エルミタージュ美術館」にある、わけは、
ロシア人の繊維業者セルゲイ・シチューキンにあった。
「マティス 知られざる生涯」、
ヒラリー・スパーリング著、白水社発行で、
マティスと大富豪シチューキンの関係を知ることできる。
ロシア人のコレクター、シチューキンのコレクションは、
マティスの前に、印象派のマネとルノワールだった。
それから、ゴーギャンに惚れ込んでいた。
マティスは、サロンに「帽子の女」を出品した(1905年)。
「帽子の女」。
「マティス 知られざる生涯」、
ヒラリー・スパーリング著、白水社発行から。
「帽子の女」がサロンに出品されると、酷評された。
ひどい手抜きだ、乱暴な落書きだ、絵の具を塗りたくったものだ。
「野獣」(フォーヴ)だ、と呼ばれて人びとから、あざけりを受け、
以後、「野獣派」(フォービズム)と呼ばれるゆえんとなった。
しかし、ピカソはちがっていた。
「帽子の女」に驚き、
「生きる歓び」に衝撃を受けた。
「マティス 知られざる生涯」から。
この「生きる歓び」に、「ダンス」の予兆があることを、あとで説明する。
ピカソは、
「自分のこれまでの最も野心的な作品さえ、
弱々しいものに思え、それどころか、二番煎じのように感じられた」
ロシアの大富豪、シチューキンは、マティスに興味を持った。
そして、アトリエを訪問した。1906年、マティスが36歳、
シチューキン56歳だった。
この訪問がきっかけで、2人の人生が大きく変わった。
それからの10年、マティスは、
シチューキンから、
大きな経済援助を得るとともに、
創作の勇気と強い野心を与えられた。
マティスは、シチューキンをつぎのように言っている。
「画期的だと自負している作品を、
シチューキンは直感的に選びとる才能がある」
「赤い部屋」は、シチューキンが買った。
非常識で、幼稚で、奇怪だと評されたものだったが。
「ニンフとサテュロス」も、シチューキンが買った。
レイプをしようと、襲いかかろうとする様は、
不道徳と評されたものだったが。
「画家の家族」も「会話」も、シチューキンが買った。
あとで「プーシキン美術館」に行くが、
「金魚」も、シチューキンが買った。
結局シチューキンは、37点のマティスの絵を買うことになる。
「モロッコのカフェ」。
「マティス 知られざる生涯」から。
「エルミタージュ美術館」で探したが、見つからなかった。
この「モロッコのカフェ」を見て、
シチューキンはその場で買い上げた。そして、
「化粧室に掛けて、毎日少なくとも1時間は1人で、
眺めるようにした。その結果、自分のコレクションのなかで、
いちばん好きになった」、という。
マティスは、
この「モロッコのカフェ」で、
現実を見る目のレベルが一段上がった。
それは、同時代の人びとにはついていけない領域だった。
未来に飛躍するには、画家とコレクターが手に手をとって、
おたがいに勇気と想像力が必要だった。
マティスの傑作、「ダンス」と「音楽」を、
さすがのシチューキンも、買うのをためらった。
シチューキンは、
邸宅の1階から2階への階段を飾る、2点の大作がほしかった。
「ダンス」と「音楽」の構想は、2人で昼食をとった1908年に生まれた。
マティスは、
「ダンス」のインスピレーションを、カタルーニャから得た。
スペインとの国境で、地中海に面した、カタルーニャの色濃い港町、
コリウールに滞在した。浜辺で、カタルーニャンが興じたダンスから、
思いついた。
マティスの「ダンス」が生まれたいきさつが、
カタルーニャのダンスにあったことを、
「美術館事情」の話をしたカタルーニャンに話せば、
「そうなんだよ! カタルーニャは天才を生むところなんだ」
と、喜びそうだ。
「生きる歓び」1906年、を見ると、
浜辺の中央奥で、6人の女性がダンスをしている。
コリウールでの体験が、「ダンス」に昇華したようだ。
ダンスに興じるカタルーニャンを見たことがある。
お祭り「サンタ・エウラリア」。2月、バルセロナで。
「ヒガンテ」 巨人の人形が、バルセロナの街を練り歩く。
カテドラルの広場では、バンド演奏が始まると、上着をとり、
荷物を真ん中にして、手を取ってダンスをする老若男女の輪が、
あちこちにできた。そして、楽しそうに踊る「サルダーナ」は、
マティスがインスピレーションを得たダンスを見ているようではないか。
「ダンス」と「音楽」は2年かかって、1910年にできた。
「ダンス」と「音楽」をサロンに出品すると、酷評された。
強引だ、攻撃的だ、グロテスクだ。
シチューキンはサロン出品の1週間前にパリに来た。
そして、「ダンス」と「音楽」の受け取りを拒否して、
モスクワに帰った。
しかし、2日後、シチューキンは、
「やはり買うことにした」
と、電報を打ってきた。
しかも、高額を提示した。つづいて、
一瞬、心が揺らいだことを恥じる手紙を送った。
モスクワで、「ダンス」と「音楽」を受け取ると、
シチューキンは、マティスに手紙を送った。
「世間はきみを受け入れないだろう」
「だが、未来はきみのものだ」
モスクワの「プーシキン美術館」にも、マティスの絵があった。
「プーシキン美術館」の入口の右上の壁には「金魚」が掲げられていた。
「金魚」は、「プーシキン美術館」の目玉商品であることがわかる。
この「金魚」は、北アフリカのサハラ砂漠の北端にあるオアシス都市、
ビスクラ (アルジェリア)に旅したときに見た金魚の印象が、作品になった。
プーシキン美術館では、「金魚」のほかに、
「ダンスのある『ナスタチウム』」、
「タンバリンを持つスペインの踊子」、
そして、「薔薇色のアトリエ」を見た。
マティスだろう? と、写真を撮って、あとで調べた。「薔薇色のアトリエ」だった。
ロシアの繊維業者のイワン・モロゾフは、
ルノワール、セザンヌ、ゴーギャン、ボナール、ピカソをコレクションした。
同じく、ロシアの繊維業者のセルゲイ・シチューキンは、
ルノワール、セザンヌ、ゴーギャン、ピカソ、そして、マティスを中心に、
コレクションした。ロシア革命で、これらのコレクションは接収されて、
国家のものになり、シチューキンはフランスに亡命した。
コレクションは、「エルミタージュ美術館」と、
「プーシキン美術館」に分けて移管された。
ソ連時代は、「ブルジョア的だ」と、
公開されなかった。
画家マティスとコレクター、シチューキンとが、
手に手をとって、勇気と想像力で傑作を生んできた。
マティスは、人びとへの受けを狙うのではなく、
いばらの道である、その先を狙って創造をしていた。
マティスは旅をして、インスピレーションを得ていた。
カタルーニャの色濃いコリウール、モロッコ、アルジェリア。
マティスの葛藤と創造に、シチューキンが味方した。
サンクト・ペテルブルクの「エルミタージュ美術館」と、
モスクワの「プーシキン美術館」へ行くと、
マティスの傑作に逢える。
コレクターが、財力にものを言わせて、かき集めた、
「コレクション」を展示する「美術館」ではなく、
マティスとシチューキンによる勇気と野心の、
傑作を展示する「美術館」だった。