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『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(読書メモ)

マックス・ウェーバー(大塚久雄訳)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫

近代資本主義はどのように生まれたのか?その原因を宗教面から探究したのが本書。

ただし、資本主義といっても「近代」という点がミソである。近代的資本主義は、単なる「儲け主義」ではなく、合理的な経営によって資本を増やし、合理的に組織が運営される形態を指す。

この近代資本主義が発達していったのは禁欲的なプロテスタントの国であった、という点が面白いところだ。

なぜか?

そのポイントは、天職禁欲

来世で天国に行くためには、この世では禁欲して、なるべく合理的な生活態度をとらなければならない。これを作りだしたのがルターの「天職観念」である。自分の職業は神から与えられた使命であり、それを全うすることにより天国に行くことができるという考え方だ。

この天職観念は、神のために労働し利潤を上げることを正当化する。利潤が上がるほど、神からの使命を果たした証拠になるからだ。ただし、その利潤は無駄に使うのではなく、禁欲的に節制し、資本を蓄積し、新たな生産手段に投資しなければならない。こうした姿勢が近代資本主義を生み出したのである。

しかし、プロテンスタンティズムの倫理である「天職・禁欲の精神」は、残念ながら現代の資本主義にはあまり残っていない。本書の最後で、ウェーバーは次のように嘆く。

「今日では、禁欲の精神は―最終的にか否か、誰が知ろう―この鉄の檻から抜け出てしまった。ともかく勝利をとげた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱をもう必要としていない。禁欲をはからずも後継した啓蒙主義の薔薇色の雰囲気でさえ、今日ではまったく失せ果てたらしく、「天職義務」の思想はかつての宗教的信仰の亡霊として、われわれの生活の中を徘徊している」(p.365)

資本主義の根幹は、「神から与えられた職業」という天職観念であったにもかかわらず、この本が書かれた1920年にはすでにその精神は失われていたという事実は重い。

われわれ一人一人は、今こそ「天職」という考え方を見直すべきではないか、と感じた。

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