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『ジーキル博士とハイド氏』(読書メモ)

スティーブンスン(村上博基訳)『ジーキル博士とハイド氏』光文社

人間が持つ「善・悪」二面性を例えるときに使われる「ジキルとハイド」。その原作である。

ジーキル博士は人格者としての評判が高い紳士であるが、自分の中に住む善と悪が気になってくる。

「もしそれぞれを、べつべつの人格に住まわせることができたなら、人生から耐えがたいことはのこらず消えるはずだと思った。邪まなほうは、もうひとりの、正しいほうの向上心や自責の念から解放されて、おのが道を行けばいい。そうすれば正しいほうは、もはや自分につきまとう悪魔の手で、恥や悔悟にさらされることなく、善行によろこびを見いだしつつ、着実に、安心して、向上の道を進むことができる。そんな相容れぬ存在がひとつに束ねられ、悶え苦しむ意識の子宮のなかで、まるきり正反対の双子が間断なく戦っているのは、人間の呪いなのだ」(p.105-106)

そこで、自分の中に棲む悪の権化である「ハイド」に変身する薬を開発した。

「わたしがエドワード・ハイドの容姿になると、そばにくる人で、のっけから本能的おびえを見せぬ人はひとりもいなかった。思うにそれは、われわれが日常出会う人間は皆、善と悪の複合体であるのにひきかえ、エドワード・ハイドは人類にひとりしかいない、混じりけなしの純粋な悪だったからだ」(p.110)

しかし、よく考えると、「ジーキル博士=善、ハイド氏=悪」ではなく、「ジーキル博士=善+悪、ハイド氏=悪」である。物語では、ハイド氏に変身する場面は出てくるが、「純粋な善」の化身に変身する場面は出てこない。「純粋な善人」とは、いったいどのような人なのか知りたいと思った。

われわれの中には「比較的善な自分」と「悪い自分」が住んでいるが、どちらが主体となるか、他方とどのように戦うかが、その人の生き方を決めるのだろう、と感じた。

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