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『禅学入門』(読書メモ)

鈴木大拙『禅学入門』講談社学術文庫

本書は、鈴木大拙が外国人向けに書いた英語の本 "An introduction to Zen Buddhism"の邦訳である。

まず、禅とは何を教えるのか?

「禅は何を教えるかと問うものがあれば、私は答える。禅は何物も教えないと。禅にある教訓が何であっても、それは皆人々の心から出るものであって、禅は単に道を示すに過ぎない」(p.23)

この箇所を読み、手取り足取り教えることを嫌う日本人の特性が、禅の影響であるような気がした。

では、道とは何か?

「昔、南泉は趙州に「道(禅の真理)とは何か」と問われて、「汝の日々の生活、それが道である」と答えた」(p.87)

同様に。

「禅の真理は日常生活の極めて具体的な物のうちにあるのである」(p.102)

なにげない、日々の生活の中に禅の真理が潜んでいるらしい。

この真理を、どのように理解したらいいのだろうか?

「禅修行の目的は事物の観察に対する新見地を獲得することにある。もし吾々が二元主義の法則に従って、論理的に考える習慣を持っているならば、それを捨て去ることである。そうすれば禅の見方に近寄ることができる」(p.111)

つまり、「論理」を捨てよということだ。

では、どうすればいいのか?

「禅ではこの新見地を獲得することを「悟り」という。(中略)悟りは知的または論理的理解に対する直覚的洞察と定義することが出来よう」(p.112)

「悟りは神を見ることではない。それは創造の働きを直観することである。造物主そのものの仕事場を覗くことである」(p.126)

つまり、「神様の働きを、直観によって捉える」ということだろうか。

さらに大拙先生は言う。

「禅は真理の深底に到達することに期待する。そして真理は、人が知的あるいはその他すべての外観的粉飾を脱ぎ捨てて、本来の赤裸に帰ることによって、初めて掴むことの出来るものである」(p.192)

正直言うと、本書を読んでも、「これが禅だ」というハッキリとした回答が得られるわけではない。しかし、「われわれの日々の生活」を「論理ではなく、直観を使って」「本質的でないものを剥ぎ取って」「神の働き」を見ることが、「禅」なのかな、と思った。



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