栢森(明日香村)へは交通手段がなく、車に乗り合わせて行く。
栢森(かやのもり)
稲渕・栢森・入谷は奥飛鳥と言われる飛鳥でも奥まったところ。
栢森は稲渕からさらに奥に入った集落である。
ここから芋峠を越えて吉野に通じる道があり、持統天皇が31回も吉野宮滝へ行幸されたと言われる。
今も古道が残っており、吉野まで歩いたこともある。
奥飛鳥や歴史に詳しいメンバーのお話では、多い時には1日に150人もの旅人が栢森を通って吉野に向かったとのことで、道中には宿が4件、酒屋が4軒あったという。
昭和30年代には旅芸人一座が1か月間逗留して興行を行い、栢森や入谷や周辺の人で賑わったとか。
山里ながら活気が感じられるお話だった。
しかし明治15年に36軒あったのが徐々に人口は減少していった。(平成22年には24軒になる。ネットによる)
今は静かな山里である。
1枚岩を流れる水 民家の間を流れているが渓谷のような飛鳥川。ここは源流部だ。
金かめバス停があった。あれっ。バスは廃止になったのじゃなかった?
昔は橿原神宮から石舞台・上居・稲渕・栢森・入谷まで運航していたバスは、だんだんと路線を縮小し、今は石舞台までしか行かない。
よく見ると「金かめ乗り合い交通」と書いてある。どうも村民のための「登録制・予約制の乗合タクシー」らしい。
奥飛鳥の住民の人の足として「金かめ乗り合い交通」があるのだろう。 (違ってたら教えて下さい)
昔あった酒屋の名残 懐かしい看板が並ぶ。
ナンテンの色合いも鮮やか。 セッコクの付いた木 立派なお家が並んでいる。
加夜奈留美命神社
何回も来ている加夜奈留美命神社だがよく知らない。(飛鳥の神奈備・・と聞いたことがあるような・・)
ここは江戸時代には「葛神」と言われていた。平安時代に「カヤナルミ」の記録があり、地名「かやのもり」と似るところから「加夜奈留美命神社」に充てられた。
神社横にある小さい社は「葛神社」(境内社らしい)これを加夜奈留美命神社に充てたのか?
右)社の後ろにある自然石の石碑。 龗らしい「雨がんむり」がうっすらと見える。
説明によると、この難しい「龗」(おかみ)(雨がんむりの下に口3つ並べ、その下に龍の字)これは国字といわれる日本で作られた漢字だそうだ。
日本書紀では「龗」、古事記では「淤加美」、万葉集では「於加美」とも書かれる。
龗は竜蛇の姿をした雨の神で「高龗」ともいう。 何か所か「高龗(たかおかみ)神社」を知っている。
明治時代に富岡鉄斎がこの神社を復興し社を建てたというのも初めて聞いた。知らないことばかりだ。
富岡鉄斎は画家としか認識していなかったが、石上神宮などの神官も務めていたという。
鉄斎が建てたという社殿は後に焼け、現在の社殿は後に再建されたものとか。
掲げられたケヤキの皮の扁額は焼け残ったものらしい。
扁額そのものが焼け残ったのか? 焼け残ったケヤキの、皮で作ったもの? 聞き洩らして定かでない。
境内のカヤ・ゴヨウマツについての説明もあった。
神社を出て上流部へ。
入谷分校跡
道路は年々きれいになっている。 ここは入谷分校の跡という。
今まで気づかなかったが・・と思ったら、田んぼだったたらしい。それを復元?されたようだ。
ここに高市小学校・入谷(にゅうだに)分校の校舎と職員宿舎などが建っていたという。
この広さで運動場はとれたのだろうか?
栢森・入谷の1年生から6年生までの複式学級で、昭和45年には60人の児童が学んでいたとのこと。
分校は昭和44年に廃校になった。
高市小学校には入谷分校の他に畑分校があった。私の同級生もいる。
今日は行かないが、分岐があり、ここから登るとさらに高所の天空の集落・入谷に至る。
女渕
林道をさらに進み、下り、女渕の近くの川原に降りる。
この川の端をさかのぼると「女渕」という滝に至るが、台風で荒れていくことができないようだ。
女渕の滝つぼの深さは6m程の青竹を入れても底にとどかないぐらい深く、渕は竜宮と繋がっているといわれる。
皇極天皇がここで雨ごいをされたところたちまち雨が降ったという言い伝えが残る。
さらに上流には「男渕」があるのだが。今日はここまでで、引き返す。
カンボクがおびただしい果実をつけていた。 もう黒っぽくなったケンポナシの果序が落ちていた。
駐車場所に到着後、解散となった。
入谷のことをネットで調べようと思ったら、過去の自分のブログが出てきた。
ちょっと危なっかしい入谷の思い出を記録してある。興味があれば「奥飛鳥 探検」で検索してみてください。
栢森(かやのもり)
稲渕・栢森・入谷は奥飛鳥と言われる飛鳥でも奥まったところ。
栢森は稲渕からさらに奥に入った集落である。
ここから芋峠を越えて吉野に通じる道があり、持統天皇が31回も吉野宮滝へ行幸されたと言われる。
今も古道が残っており、吉野まで歩いたこともある。
奥飛鳥や歴史に詳しいメンバーのお話では、多い時には1日に150人もの旅人が栢森を通って吉野に向かったとのことで、道中には宿が4件、酒屋が4軒あったという。
昭和30年代には旅芸人一座が1か月間逗留して興行を行い、栢森や入谷や周辺の人で賑わったとか。
山里ながら活気が感じられるお話だった。
しかし明治15年に36軒あったのが徐々に人口は減少していった。(平成22年には24軒になる。ネットによる)
今は静かな山里である。
1枚岩を流れる水 民家の間を流れているが渓谷のような飛鳥川。ここは源流部だ。
金かめバス停があった。あれっ。バスは廃止になったのじゃなかった?
昔は橿原神宮から石舞台・上居・稲渕・栢森・入谷まで運航していたバスは、だんだんと路線を縮小し、今は石舞台までしか行かない。
よく見ると「金かめ乗り合い交通」と書いてある。どうも村民のための「登録制・予約制の乗合タクシー」らしい。
奥飛鳥の住民の人の足として「金かめ乗り合い交通」があるのだろう。 (違ってたら教えて下さい)
昔あった酒屋の名残 懐かしい看板が並ぶ。
ナンテンの色合いも鮮やか。 セッコクの付いた木 立派なお家が並んでいる。
加夜奈留美命神社
何回も来ている加夜奈留美命神社だがよく知らない。(飛鳥の神奈備・・と聞いたことがあるような・・)
ここは江戸時代には「葛神」と言われていた。平安時代に「カヤナルミ」の記録があり、地名「かやのもり」と似るところから「加夜奈留美命神社」に充てられた。
神社横にある小さい社は「葛神社」(境内社らしい)これを加夜奈留美命神社に充てたのか?
右)社の後ろにある自然石の石碑。 龗らしい「雨がんむり」がうっすらと見える。
説明によると、この難しい「龗」(おかみ)(雨がんむりの下に口3つ並べ、その下に龍の字)これは国字といわれる日本で作られた漢字だそうだ。
日本書紀では「龗」、古事記では「淤加美」、万葉集では「於加美」とも書かれる。
龗は竜蛇の姿をした雨の神で「高龗」ともいう。 何か所か「高龗(たかおかみ)神社」を知っている。
明治時代に富岡鉄斎がこの神社を復興し社を建てたというのも初めて聞いた。知らないことばかりだ。
富岡鉄斎は画家としか認識していなかったが、石上神宮などの神官も務めていたという。
鉄斎が建てたという社殿は後に焼け、現在の社殿は後に再建されたものとか。
掲げられたケヤキの皮の扁額は焼け残ったものらしい。
扁額そのものが焼け残ったのか? 焼け残ったケヤキの、皮で作ったもの? 聞き洩らして定かでない。
境内のカヤ・ゴヨウマツについての説明もあった。
神社を出て上流部へ。
入谷分校跡
道路は年々きれいになっている。 ここは入谷分校の跡という。
今まで気づかなかったが・・と思ったら、田んぼだったたらしい。それを復元?されたようだ。
ここに高市小学校・入谷(にゅうだに)分校の校舎と職員宿舎などが建っていたという。
この広さで運動場はとれたのだろうか?
栢森・入谷の1年生から6年生までの複式学級で、昭和45年には60人の児童が学んでいたとのこと。
分校は昭和44年に廃校になった。
高市小学校には入谷分校の他に畑分校があった。私の同級生もいる。
今日は行かないが、分岐があり、ここから登るとさらに高所の天空の集落・入谷に至る。
女渕
林道をさらに進み、下り、女渕の近くの川原に降りる。
この川の端をさかのぼると「女渕」という滝に至るが、台風で荒れていくことができないようだ。
女渕の滝つぼの深さは6m程の青竹を入れても底にとどかないぐらい深く、渕は竜宮と繋がっているといわれる。
皇極天皇がここで雨ごいをされたところたちまち雨が降ったという言い伝えが残る。
さらに上流には「男渕」があるのだが。今日はここまでで、引き返す。
カンボクがおびただしい果実をつけていた。 もう黒っぽくなったケンポナシの果序が落ちていた。
駐車場所に到着後、解散となった。
入谷のことをネットで調べようと思ったら、過去の自分のブログが出てきた。
ちょっと危なっかしい入谷の思い出を記録してある。興味があれば「奥飛鳥 探検」で検索してみてください。
栢森の雌綱 稲渕の雄綱 お手伝いさせてもらいましたね。懐かしいです。
Sサークルでしたか?
柏森あたり懐かしい場所ですね
先日も 「なぜ縄をなえるようになったのか」
という話をしたばかり
3mもの長い縄を よくなったものですね
2009年の探検のブログ 拝見しました
8年も前だったんですね
何年か前に大仁保神社行ったけど綺麗になってましたが人がいなくて
でも 見晴らしは絶景ですね
また色々探検話し 楽しみにしています