柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

読経

2023-08-15 10:28:01 | Weblog

お寺さんに自宅に来てもらって読経してもらう、これもお盆の儀式です。親に強いられて嫌々聞いていた頃から、やがて子に教える立場になり、昨日は多くの孫を並んで座らせての場でした。昔親が座っていた場所に自分が座り、自分が座っていた場所に子が座り孫が座り走りまわる。読経の意味など分かりもしないし誰も教えもしないけれど、盆にはこうやって皆集まって線香の煙と匂いのなかで読経を聞く、この経験です。昨日も書きましたが、何故?どうして?の理屈ではない、この時にはこうするのだという体の記憶。たしかにそれらの多くには確たる根拠(今の時代にも通用するような根拠)のない者が多く無意味な(非科学的な)習俗風習と否定する向きも多いことですが、所詮人の世は人の社会はこういう秩序の元に組み立てられているのです。その時々には皆で同じ方を向く、同じ態度をとる。昔から続けられてきたこと事にはそれなりの意味があり価値があるのだという考え方です。当のお寺さんも心得たもので、もちろん年一番の書き入れ時です愛想もいいことで。読経の内容も違うのです、もちろん経本を読んだことなどないです、般若心経なら覚えているフレーズもありますがそうではない、その時々のお経なのでしょう。とは私が思っているだけで、向こうさんもこっちのその事情はわかっているでしょう、何を選ぼうが少々間違えようが誰にも指摘などされません。お寺行事に詳しい熱心な檀家さんを前にしてはそうは行かぬことかもしれませんが、年に一度しかお経を聞かない衆を前にしては気は楽なことで?ただこのくそ暑い中を巡らねばならぬは体力勝負ではあります、先々でお茶振る舞われて腹はタッポンたっぽんで。声の調子や声量具合で体調や機嫌を推し測ったり。走りまわる孫の数が増えていく、子育て真っ最中の子たちを見遣りながら、我が立ち位置を知るわけです。年寄りにとっては盆を含めて年次行事とはそういう意味合いなのだと、これもこの歳になって初めて気づくわけです。

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