サッカーの話をしようと思ったのですが、新聞に大島瑛子さんの死亡記事が載っていたので今日はその記事を書きます。
大島瑛子といっても知らない方が多いでしょうが、彼女は大島渚監督の妹さんです。大島監督は脳疾患に倒れて現在寝たきりですが、妹さんのほうが先に亡くなってしまいました。
彼女は単なる大島の妹というわけではなく、大島作品の製作実務の片腕のような存在でした。新聞記事を引用します。
>大島瑛子さん死去(映画製作者、映画監督大島渚氏の妹)
2010年7月14日13時6分
大島 瑛子さん(おおしま・えいこ、本名戸田瑛子=とだ・えいこ=映画製作者、映画監督大島渚氏の妹)8日午後、肺がんのため東京都新宿区の病院で死去、73歳。葬儀は関係者で済ませた。喪主は義姉の中井茂子(なかい・しげこ)さん。
大島プロダクション代表を務め、大島渚監督の「御法度」などを製作。同監督の「飼育」などでは女優としても活躍した。夫は美術監督の故戸田重昌氏。
[時事通信社]
さて、かつて大島渚監督といっしょに映画を作っていた方々がほんとみなさん亡くなってしまいました。
今年佐藤慶が亡くなりました。彼は60年の「青春残酷物語」から最新作の「御法度」まで大島映画に顔を出し続けましたが、今年81歳で亡くなりました。
大島とは京都大学時代からの仲間である戸浦六宏は1993年に亡くなっています。彼はもともとは高校の英語の教師でして、「戦場のメリークリスマス」で通訳を演じていましたが、大島によると氏の英語は日本人以外には英語と理解できず(笑)、けっきょくふきかえたそうです。
大島とデビュー作「愛と希望の街」からの盟友である渡辺文雄は2004年に亡くなっています。もともと彼は松竹所属の俳優でしたが、大島とともに松竹を退社しました。
で、「絞死刑」での検察官役が印象的だった小松方正は2003年に亡くなっています。いい役者さんだったのですが。
そして「少年」など、まさにこの人なくて大島映画なしといえる名脚本家田村孟は1997年に死亡、ウルトラマンシリーズの脚本でも知られる佐々木守は2006年に亡くなっています。ついでながら佐々木氏は、「知ってるつもり!?」の構成も担当していました。
ほかにも大島映画の音楽を数本担当した武満徹は1996年に亡くなり、撮影を担当した写真家でもある吉岡康弘は2002年に亡くなり、ほかにも成島東一郎(撮影監督)や、まさに大島映画にこの人ありとでもいうべき美術監督の戸田重昌も亡くなっています。引用した新聞記事にもあるように戸田氏は、大島瑛子さんの夫でした。つまり大島とは義兄弟の関係だったわけです。1987年に戸田氏は亡くなっていますが、あの独特な美術がみられなくなったのは残念で仕方ありません。
大島が映画監督としてデビューしたのは1959年ですからもうその仲間たちが亡くなっていくのは仕方ないことなのかもしれません。が、大島映画もまさに歴史となっていくのだな…とちょっと感慨深い気分になりましたので今日の記事を書きました。ちょっと暗い記事になってしまったかもしれません。ごめんなさい。
大島瑛子といっても知らない方が多いでしょうが、彼女は大島渚監督の妹さんです。大島監督は脳疾患に倒れて現在寝たきりですが、妹さんのほうが先に亡くなってしまいました。
彼女は単なる大島の妹というわけではなく、大島作品の製作実務の片腕のような存在でした。新聞記事を引用します。
>大島瑛子さん死去(映画製作者、映画監督大島渚氏の妹)
2010年7月14日13時6分
大島 瑛子さん(おおしま・えいこ、本名戸田瑛子=とだ・えいこ=映画製作者、映画監督大島渚氏の妹)8日午後、肺がんのため東京都新宿区の病院で死去、73歳。葬儀は関係者で済ませた。喪主は義姉の中井茂子(なかい・しげこ)さん。
大島プロダクション代表を務め、大島渚監督の「御法度」などを製作。同監督の「飼育」などでは女優としても活躍した。夫は美術監督の故戸田重昌氏。
[時事通信社]
さて、かつて大島渚監督といっしょに映画を作っていた方々がほんとみなさん亡くなってしまいました。
今年佐藤慶が亡くなりました。彼は60年の「青春残酷物語」から最新作の「御法度」まで大島映画に顔を出し続けましたが、今年81歳で亡くなりました。
大島とは京都大学時代からの仲間である戸浦六宏は1993年に亡くなっています。彼はもともとは高校の英語の教師でして、「戦場のメリークリスマス」で通訳を演じていましたが、大島によると氏の英語は日本人以外には英語と理解できず(笑)、けっきょくふきかえたそうです。
大島とデビュー作「愛と希望の街」からの盟友である渡辺文雄は2004年に亡くなっています。もともと彼は松竹所属の俳優でしたが、大島とともに松竹を退社しました。
で、「絞死刑」での検察官役が印象的だった小松方正は2003年に亡くなっています。いい役者さんだったのですが。
そして「少年」など、まさにこの人なくて大島映画なしといえる名脚本家田村孟は1997年に死亡、ウルトラマンシリーズの脚本でも知られる佐々木守は2006年に亡くなっています。ついでながら佐々木氏は、「知ってるつもり!?」の構成も担当していました。
ほかにも大島映画の音楽を数本担当した武満徹は1996年に亡くなり、撮影を担当した写真家でもある吉岡康弘は2002年に亡くなり、ほかにも成島東一郎(撮影監督)や、まさに大島映画にこの人ありとでもいうべき美術監督の戸田重昌も亡くなっています。引用した新聞記事にもあるように戸田氏は、大島瑛子さんの夫でした。つまり大島とは義兄弟の関係だったわけです。1987年に戸田氏は亡くなっていますが、あの独特な美術がみられなくなったのは残念で仕方ありません。
大島が映画監督としてデビューしたのは1959年ですからもうその仲間たちが亡くなっていくのは仕方ないことなのかもしれません。が、大島映画もまさに歴史となっていくのだな…とちょっと感慨深い気分になりましたので今日の記事を書きました。ちょっと暗い記事になってしまったかもしれません。ごめんなさい。
大島組の癖のある俳優人、佐藤慶、戸浦六宏、小松方正、
渡辺文雄、皆上手かったです。好きでしたね。人間も
いずれこの世からいなくなるものですが、芸の達者な
人間が少なくなるのはやはり淋しいですね。
大島作品には何度も衝撃を受けました。今回お名前が挙がっている皆さんには、本当に感謝しています。
上にあげた俳優さんたち、みんないい俳優さんばかりでしたが、やはり酒の飲みすぎもあってか早死にした方もいます。残念で仕方ありません。
たとえば「儀式」なんてのはいまあげた俳優さんたち総出演で、すごいなと今でも思います。大島監督も、製作費にめぐまれずずいぶん苦労したし、上にあげた戸浦氏への追悼文では、もっと彼にぜいたくな暮らしをさせたかったみたいなことを書いていました。戸浦さんは、高校教師を辞めて役者に専念したことは後悔はされていないと思いますが…。