ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

映画で描かれた葬式のありかたが、まるっきり過去のものになっていることを痛感する(伊丹十三監督『お葬式』)

2023-02-14 00:00:00 | 映画

日本映画専門チャンネルで、故伊丹十三の初監督作品『お葬式』をしばらくぶりに見ました。

伊丹十三DVDコレクション お葬式

当方、伊丹の映画を「うまい」とは思いますが、正直好きではないし、この『お葬式』も世間で言われるほど出来のいい映画とは思いませんが(そういう意味でいうと、本多勝一氏の見解に近い)、それはこの際どうでもいい話。私が書きたいのは、この映画で描かれる葬式が、まるっきり過去のものになったということです。

このブログを読んでいただいている方の多くは、この映画をご覧いただいているかもだし、そうでなくても内容のアウトラインはご存じでしょう。が、ネタばれうんぬんの映画ではないのでここでストーリーを書いてしまいますと、主人公の義父が急死し、その住居で行われる葬式について、いろいろなことが起きて、最後焼かれて骨となって帰ってきて、会場だった住居で後片付けをするところで映画は終わります。

映画ではいろいろなことが起きますが、それはともかく。つまりこの映画における葬式の過程を考えますと・・・

①病院で亡くなったので、自宅に遺体が運ばれる

②準備が行われる

③通夜がある

④本葬がある

⑤焼き場で焼く

⑤骨が自宅にもどる

というものです。いろいろなエピソードはありますが、だいたいこのようなものです。

この映画が撮影・公開されたのが1984年であり、舞台は、神奈川県湯河原町です。映画に出てくる家は、伊丹の別宅でした。当時伊丹は東京にすでに引っ越していましたが、かつてはこの家に在住していたとのこと。

つまり、葬式が自宅で行われるということ自体、きわめて当時の状況です。東京が舞台だったら、たぶん84年ごろでしたら斎場での葬式になったでしょうが、それでは面白くないわけです。自宅で通夜とか葬式をするから面白い。湯河原だったら、まだ自宅の葬式という設定が可能だったということなのでしょう。

通夜、葬式があるというのも、最近は家族葬が主流になっています。私の父は、2013年に死亡していますが、その時は、一般の会葬者を招き、香典をもらいました。この映画でも、札束が風に舞うという古典的なシーンがありますが、いまの時代香典不要、参列もご辞退願いますという状況ですから、これもまた映画になりません。我が家も、現在父の葬式をするのなら、当然家族葬、香典辞退ということになります。2年前父の兄が亡くなりましたが、(当然)家族葬で焼き場に行ったりすらしませんでした。行ったのは、伯父の家族だけです。お清めの儀式もなく、弁当をもらって帰宅しました。まあそっちのほうが面倒がなくていいのですが。

新型コロナの関係が、そのような変化を最終的に後押ししたのは確かですが、でもこれは、それがなくても時間の問題で同じ状況になったのでしょうね。今の時代、葬式に他人を巻き込むということがなくなっている。そもそも特に有名人の場合、死んでからしばらくして死を発表することも昨今珍しくない。立花隆なども2か月ほどその死が伏せられていました。

2か月弱死が伏せられていたのだから、立花隆もたぶん世間的には「過去の人」だったのだろう(外地・旧植民地で生まれたり育った人たちもどんどん亡くなっている)

その場合葬式を家族葬で済ませて、(するのなら)偲ぶ会みたいなものを有志だかで開催するというパターンがありそうです。つまりは、葬式というのが身内でするというものに完全にシフトしたということなのでしょう。

そう考えると、『お葬式』という映画も、当時の時代の葬式というものを如実に表しているというものなのでしょうね。この映画での葬式は、今後の日本ではあまり見られないものになるでしょうし、いまはまだそうでないとしても将来的には、「へえ、昔の葬式ってこういうんだったんだ」という風に見られるんですかね。多分そうなるのだろうと思います。そんなことを伊丹はとくに意識しなかったのかもしれませんが、ある時代の風習・習俗を期せずしてフィクションとはいえ記録することになったわけで、案外そういう意外な効用(?)というのも映画にはあります。それはそれで、面白いことだなと感じました。なお私は、死んだら直葬にしてもらえればと思います。もちろん戒名など完全拒否、どうしてもつけるのなら一番安いものにしてくれと頼むように私の相続人には伝えておく所存です。

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