暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

畠山記念館・・・「雲州蔵帳」の世界へ (2)

2018年05月12日 | 美術館・博物館


(つづき)
松平不昧が蒐集した茶道具の目録「雲州蔵帳」には次の7つの部に格付けされ整理されています。
  「宝物之部」  天下無二
  「大名物之部」 宝物に次ぐもの
  「中興名物」  小堀遠州の撰鑑
  「名物並之部」 「中興名物」と同格、自選
  「上之部」   他に類作があっても優れたもの
  「中之部」   「上之部」に次ぐもの
  「下之部」   通常使用のもの



    (ポスターの下部の茶入が「油屋肩衝」、盆は唐物若狭盆です)

「宝物之部」の筆頭に記されている「唐物肩衝茶入 油屋肩衝」、畠山記念館に収蔵され、今回の展示の大目玉です。
油屋から豊臣秀吉に献上の時、利休が添えたと伝えられる「唐物若狭盆」も展示されています。

唐物肩衝茶入  銘・油屋   南宋時代(13世紀)
宝物之部
伝来 油屋常言・常祐--豊臣秀吉--福島正則・正利--柳営御物--土井利勝--河村瑞賢(軒)--冬木喜平次--松平不昧--月潭--出雲松平家--畠山即翁

その印象は、どっしりと大きな全体の形、かっちりと幅広の肩、むらむらと湧き上がる黒雲のような黒釉薬の乱れの迫力・・・一目で「なんて男性的な茶入なんだろう! 華奢な手よりもごつごつとした手を持つ武人にさぞやお似合いなこと」と思いました。
この茶入に合う茶碗は「え~とっ・・・」、すぐ近くに「細川井戸」が展示されていました。
碗形の柔らかな曲線、枇杷色の胴に帯状の白釉薬がかかり、人の掌のような温かみを感じる「細川井戸」。
松平不昧は他にも「喜左衛門井戸」「加賀井戸」などを所有していましたが、「油屋肩衝」には「細川井戸」がお似合いかも・・・そんなことを妄想しながら拝見していると、なんと!不昧は「油屋肩衝」を天下の宝物とし、生涯茶事に使ったことはなかったとか。
参勤交代の折には専用の笈櫃に「油屋肩衝」とその次第(付属品)を入れて道中を共にしたそうですから、「油屋肩衝」への愛着ぶりがうかがえますね。
今回の展示には「油屋肩衝」の次第(付属品)も全て展示されていて、利休の添え状や笈櫃一式もあり、こちらも圧巻でした。

「油屋肩衝」の6つの仕覆がどれも品好く素敵で、伝来の持ち主たちの深い愛情を感じます。
そのうちの3つ(宗薫緞子、下妻緞子、太子間道)は比較的新しく不昧や即翁が誂えたもの・・・だと思う。
次第の方に展示されている3つ(丹地雲文古金襴、本能寺緞子、紺地花兎文古金襴)は布地が弱って擦り切れていることから不昧以前の持ち主が誂えたのだと想像しています。


      (「油屋肩衝」の次第(付属品)・・・展示されています)

いろいろ書いて記憶に留めておきたいことばかりですが、
松平不昧は56歳で引退し、江戸・大崎の下屋敷に移り、ここに茶園を開き、趣向を凝らした多くの茶室を造り、茶の湯を楽しんだそうです。
「どんな茶室でどんな茶会をしていたのかしら?」
「どんな茶道具を使っていたのかしら?」
興味津々だったので、不昧が最も重宝したという茶室・独楽庵(どくらくあん)での茶会記の一部を写し記します。

独楽庵の茶室は一畳台目向切りですが、茶室は独楽庵、船越伊予守好みの三畳台目と、裏千家6代六閑斎泰叟好みの三畳台目向板(四畳)の三席からなっていました(「松平不昧」淡交別冊より)。
現在、出雲文化伝承館に復元されているそうです。

  茶会記(不昧候大崎茶屋懐石記) 文化3年~14年

文化十年酉年
  二月廿二日
   本多様    伏見屋甚兵衛
          干柄清右衛門

  独楽庵
一.掛もの  僧明極       一.釜   天猫責紐
一.炭斗   唐物菜籠      一.焙烙  長次郎 秋
一.花入   遠州口藤波     一.香合  大亀交趾  
   三月七日斗道安作一重切
一.水さし  伊部八角      一.茶入  古棗 袋花兎
一.茶わん  細川井戸      一.茶杓  清見ヶ関
一.蓋置   青竹        一.こぼし 曲
一.水次   菱釣

  四畳半
一.掛もの  玉澗山水      一.釜   九衛平丸
一.茶入   節季        一.茶わん 人形手

(今回の展示物にアンダーライン)・・・これにてこの項を終わりにします。 「展示をぜひ見てね!」


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