暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

茶入・安国寺肩衝と仕覆 

2011年04月22日 | 茶道具
               

あんなに咲き誇っていた桜があわただしく去ってしまって、
寂しいような、落ち着いたような、今日この頃です。
四月も残り少なくなってきました。

毎日見ている畠山記念館の四月のカレンダー(写真)に
唐物肩衝茶入 銘「日野」と二つの仕覆が載っています。
肩がしっかりとした端正で優美な唐物茶入にも惹かれますが、
仕覆づくりを習いだしたせいで、添えられた仕覆がとても気になります。
仕覆は、紺地花兎文古金襴と弥三右衛門間道、盆は、端彫四方盆です。

               

先日、仕覆教室へ行ったとき、茶入の仕覆の数の多さが話題に上りました。
「名物茶入の仕覆の数や使われている裂地に
 持ち主の愛情をひしひしと感じるわねぇ~」
十以上の仕覆を持つ茶入もあるそうで、それにもびっくり!

調べてみると、「安国寺肩衝」に仕覆が十一添えられていました。

唐物肩衝茶入 銘「安国寺肩衝」(大名物・漢作 南宗時代)は、
戦国時代の僧侶・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)の所持でその名が付けられています。
別に細川三斎(忠興 1563-1645)の命銘で、「中山肩衝」ともいいます。

三斎から安国寺恵瓊へ譲られ、関ヶ原の役後に徳川家康から津田秀政へ下賜されます。
秀政の茶会でこの茶入をみた三斎は手放したことを悔いて、
「佐夜の中山」と言い残し、ひそかに茶入を持ち帰ってしまいます。
あとで金二百枚を秀政へ届けたというエピソードが伝えられています。

「佐夜の中山」とは、西行法師の歌
  「年たけて又こゆへしと思ひきや
       命なりけり佐夜の中山」
を引いて、「もはや二度とこのような名器には逢えぬ・・・という気持ちで
この茶入を持ち帰る」という意味でした。それで「中山肩衝」とも呼ばれています。

さらに、寛永2年(1625)の飢饉の際、三斎は領民救済のため
この茶入を酒井忠勝へ譲渡したそうです。
「安国寺肩衝」は幾多の変遷を経て現在、五島美術館蔵です。  
  
この茶入は、姿形、釉薬の景色が好いことはもちろん、付属物の多さでも知られています。
最初、蓋二つ、仕覆五つが添えられていたそうですが、
その後、所有者によって仕覆六つが加えられ、十一になりました。

十一の仕覆は、
  宝尽紋錦、伊予簾緞子、青木間道、富田金襴、菱万字地紋龍紋錦
  紅地錦、細川緞子、蜀江錦、龍鳳凰紋錦、紅毛裂、紅地梅花紋錦

               

「茶入の仕覆は使用に応えることよりも茶入の権威を示すものである」
と、本(茶道具の世界5 茶入 淡交社)に書かれていましたが、
私は、権威づけよりも所有者が茶会で使うたびに、書院へ飾って眺めるたびに、
仕覆を変えてみたくなる、茶入への愛情やこだわりを感じます。

細川三斎(忠興)の茶入との出会いと別れを知って
「安国寺肩衝」と仕覆たちに急に逢いたくなりました(残念!五島美術館は休館中)。
そして、私も所持の茶入に新しい仕覆を作ってあげたくなりました・・・。